神社合祀の悪結果 第3(後編)
また従来最寄りの神社への参詣を宛て込み、果物、駄菓子、寿司、茶を売り、鰥寡(かんか)貧弱の生活を助け、祭祀に行商して自他に利益し、また旗、幟(のぼり)、幕、衣裳を染めて租税を払った者も多い。どこも廃社が多いため、職を失った者が多く、大勢の者が困っている。村民もまた他大字の社へ詣るのに衣服を新調し、あるいは大修補し、賽銭も恥ずかしくないよう多く持ち、ひどい場合は泊まりの宿泊料も持たないわけにはいかない。
以前は参拝や祭礼にいかに多銭を費やすとも、みなその大字の民の手に落ちたのに、今はそうではなく、一文失っても永くこの大字に帰らず、他村他大字の得となる。ゆえに参詣は自然に少なくなり、金銭の流通は一方に偏る。西牟婁郡南富田の二社を他の村へ合祀したが、人民は他村へ金を落とすのを嫌い、社参せず騒ぎを起こした。よって県庁より復社を命じたが、村民は一同大喜びしておのおの得意の手伝いをして、3時間で全く社殿の復興を完成させた。信心の集まる処は、金銭よりも人心こそ第一の財産と知られるのである。
日高郡三又(みつまた)大字は、紀伊国で三つの極寒村の第一である。十人と集まって顔見合わすことがないという。ここに日本にただ三つしかないという星の神社がある。古え明星がこの社頭の大杉に降臨したのを祭る。祭日には、十余里界隈、隣国大和よりも人が郡れ集い、見世物、出店が賑やかで、その一日の上り高で神殿を修覆し貯蓄金もできていた。
それなのに村吏らが強制して、至難の山路往復8里(※1里は約4km※)距てたる竜神大字へ合祀させた。するとこれまでにくらべて社費は2、3倍に嵩むため、樵夫、炭焼き輩は払うことができず、払わなければ社殿を焼き払い神木を伐れと迫られ、常に愁訴が断えない。
西洋では小部落ごとに寺院、礼拝堂があり、男女が群れ集まって夜市また昼市を見物し、たとえ一物を買わずとも散策運動の
便(たより)となり、地方繁栄の外観をも増すのが普通であるが、わが国ではこのような無謀の励行で寂寥たる資材をますます貧乏にさせるのは怪しむべきことだ。
すべて神社の樹木は、もとより材用のために植え込み仕上げたのではないので、枝が下の方より張り、節多く、伐ったところが価格ははなはだ劣る。差し迫ったこともないのに、基本金を作ると称し、ことごとくこれを伐らさせるほどにますます下値となる。ゆえに神林をことごとく伐ったところが何の足しにもならず、神社の破損は心さえ用うれば少しの修理で片付くものであるので、大破損を待って遠方より用材を買い来て修覆するよりは、これまでのように少破損あるごとにその神社の林中より幾分を伐ってただちにこれを修理すれば済むことである。
置いておけば立派で神威を増し、伐れば二束三文の神林を、ことごとく一時に伐り尽させたところが、思うほどに売れず、多くは焚き物とするか空しく白蟻を肥やして、基本金に何も加えられなかった所が多い。金銭だけが財産ではない、殷紂は宝玉金銀の中に焚死し、公孫サンは米穀の中で自滅した。いかに多く積んでも扱いようでたちまちなくなる、あやうきものは金銭である。
神林の樹木も神社の地面も財産である。火事や地震の折には、多大の財宝をここに持ち込み保全することができるのは、すでにそれだけで大倉庫、大財産である。確固たる信心は、不動産のもっとも確かなものである。信心が薄らぎ、民が正しい心を失うようになったならば、神社に基本金を多く積むとも、いたずらに悪人の悪計を助長するだけだ。要するに人民の好まぬことを押しつけて事の末である金銭のみを標準に立て、千百年来地方の人の心の中心であり続けてきた神社を滅却するのは、地方大不繁昌の基である。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収