至極の秘密の儀法
このように神社合祀は、第一に敬神思想を薄くし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却する。
当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方では愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称する。どうして下痢を停めようとして氷を食らうのと異なるだろうか。このように神社を乱合し、神職を増し置き増給して神道を張り国民を感化しようということだが、神職の多くは国民を感化できるような人ではない。おおむね我利我慾の徒であるのは、上にしばしばいったとおりである。国民の教化に何の効があるだろうか。
一方、心底から民心を感化させることができるのは、決して言筆ばかりではない。支那に祭祀礼楽と言い、欧州では美術、音楽、公園、博物館、はなはだしきは裸体の画像すら自由に見させて、遠廻しながらひたすらわずかの時間でも民の邪念を払い鬱憤を発散させることに汲々としている。いずれも人心慰安、思慮清浄を求めるのに不言不筆の感化力に 待たないわけにはいかないを知悉しているからである。
わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来があるのを、どのような無学無筆の輩にまでも円悟徹底させるすばらしい至極の秘密の儀法ではなかろうか。それだけでなく、人民を融和せしめ、社交を助け、勝景を保存し、史蹟を重んぜしめ、天然紀念物を保護する等、無類無数の大功がある。
それを支那の王安石のような偏見で、西湖を埋めるには別にその土泥を容れることができる大湖を穿たないわけにはいかないのに気づかず、利獲のみを念じ過ぎて神林を失うと、これが田地に大きな虫害を招致する原因であることを思わず、非義(道理に外れた)饕餮(とうてつ)の神職から口先ばかりの陳腐な説教を無理に聞かせて、その聴衆がこれを聞かないうちから、すでに神職輩の非義我慾に感染するであろうことを想わないのは無念至極である。
この神職輩の年に一度という講習大会の様子を見るに、(1)素盞嗚尊(すさのおのみこと)と月読尊(つきよみのみこと)とは同神か異神か、(2)高天の原はどちらのほうにあるのか、(3)持統天皇、春過ぎての歌の真意はどうかなど、呆れ返ったことを問いに県の役人が来るが、よい加減な返事を一、二人の先達がするのを、十余人が黙して聞いているのだ。米の安くない世に、これはまあ無用の人のために冗職を設けたことだと驚き入るばかりである。このような人物は、当分史蹟天然物保存会の番人として神社を守らせて、追い追いそれにふさわしい人を選び、その俸給を増やすことが願われる。
世に喧伝する平田内相は報徳宗にかぶれ、神社を滅するのは無税地を有税地とする近道であるとして、もっとも合祀を励行されたという。どうして知らないのか、その報徳宗の元祖二宮氏は、田をむやみに多く開くよりは、少々の田を念を入れて耕せ、と説いたのではなかったか。たとえ田畑を開け国庫に収入が増えたとしても、国民が元気を失い、我利に努め、はなはだしきは千百年来の由緒があり、いずれも皇室に縁故ある諸神を祀っている神社を破壊、公売するのだから、見習って不届き至極の破壊主義を思いつくようでは、国家にとって何という不祥事か。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収