神社合祀の悪結果 第4(前編)
第四
神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗をおびただしく害する。
『大阪毎日新聞』で見たが、床次(とこなみ)内務次官は神社を宗教外のものと断言し、そのうえ神社崇敬云々と言っているとのこと。しかしながら神を奉祀して神社といい、これを崇敬する以上は、神社は宗教内のものであることは明らかである。仏を祀る仏寺、キリストを拝する教会と何の違いがあろう。
憲法第二十八条は信仰の自由を公許されている。神道に比べて由緒がはるかに劣っている天理教、金光教すら存立を許している。神祇は、皇祖皇宗およびその連枝また末裔、もしくは一国に功勲のあった人から下りて一地方一村落に由緒功労のあった人々である。人民がこれを崇敬するはきわめて当然のことである。
神霊は見ることができない、ゆえに神社を崇拝するのはキリスト教徒が十字架や祭壇を敬するのに同じだ。床次次官、先年欧米を巡回して帰ってきて、欧米諸国はどこも寺院、礼拝堂が多いのを教化の根本だと嘆賞した、と聞く。わが神社がどうして欧米の寺院、礼拝堂に劣るだろうか。
ただ欧米には建築用材が多く、したがってすぐれて大きく長持ちする寺院が多い。わが国は木造の建築を主とするので、欧米のように大きく長持ちするものは少ない。ゆえに両大神宮を始め神社のいずれも時をもって改造改修する制度がある。欧米人の得手勝手で、いかなる文明開化も建築宏壮にして国亡びて後までも伝わるべきものがないのは真の開化国ではないなどというのは、大いに笑うべきだ。
バビロン、エジプトなどは、建築物は久しく残って国は亡びてしまったが、どれほどの開化があったとしてもその亡民にとって何の功があろう。中米南米には非凡の大建築が残って、誰がこれを作ったのか、探索の糸口すらないものが多い。外人がこのような不条理をいうからといって、縁もない本邦人がただただ大芸妓になれるような粋な容姿でないのを悦ぶに足らずと憂うるのと異ならない。娘が芸妓にならねば食えぬようになってしまったのに、どうして美女なのを誇り悦ぶべきか。欧米論者が大建築を悦ぶのは、「芸が身を助くるほどの不仕合せ」を悦ぶ者である。
ただし、わが国の神社は、宏大な建築ではなく、また久しく耐えない代りに、社ごとに多くの神林を存し、その中に希代の大老樹また奇観の異植物が多い。これは今の欧米ではまれなことで、わが神社の短所を補って余りある。外人が、常にギリシア・ローマの古書にのみ載せられて今の欧米で見ることができない風景雅致を、日本で始めて目撃することができる、と歎賞するのを止めないところである。
欧州にも古えは神林を尊んでいたが、キリスト教が起こって在来の諸教徒が林中に旧教儀を行なうを忌み、自教を張らんがために一切神林を伐り尽くしたのだ。何という前見の明があって、伐木したのではなく、我利のために行なった暴挙である。それでも古くからの慣習を受け継いで在来の異神の神林をそのままキリスト教寺院の寺林とし、寺林をもってその風景と威容を添えている所が多い。
市中の寺院に神林なく一見荒寥としているのは、地価がきわめて高く、今となっては何ともしようがないためである。これをよいことと思っているのではあるまい。なので菊池幽芳氏が、欧州の今日の寺院は、建築のみ宏壮で樹林池泉の助けがなく、風致も荘麗も天然の趣きがないので、心底から人心をありがたがらせ清らかにさせることがまったく足らない、と言ったのは至言である。
後年日本が富むならば、分に応じて外国よりどんな大石を買い入れてでも大社殿を建てることができるだろう。千百年を経てようやく成長した神林巨樹は、一度伐るならば億万金を費やしてもすぐには再生しない。熊沢伯継の『集義書』に、神林が伐られ水が涸れて神威がなくなる、人心は乱離して騒動が絶えない、数百年して乱世のなか人が木を伐るひまがなかったため、また林木が成長して神威も満ちるころに世は太平となる、といった。
止むを得ぬことというならば仕方ないが、今何の止むを得ぬこともないのに、わざわざ神林を濫伐させ、そうして神林が再び成長し神威人心が復帰するまで、たとい乱世とならずとも数百年を待たねばならぬとあっては、当局者の再考を要する場合ではないか。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収