神社合祀の悪結果 第7(前編)
第七
神社合祀は史蹟と古伝を滅却する。
史蹟保存が本邦に必要なのは、史蹟天然物保存会が中心となって主張するところなので、予の細説は必要としない。ただし、かの会よりいまだ十分に神社合祀に反対の意見を公けにされないのは大いに遺憾である。よって少し自分の意見を述べるが、久米邦武博士の『南北朝史』に見えたように、南北朝分立以前、本邦の土地は多くは寺社の領分であった。
したがって、著名の豪族はみな寺社領より起こった。近江の佐々木社より佐々木氏、下野の宇都宮の社司より宇都宮氏、香椎・宇佐の両社領より大友氏が勃興したがごとくである。しかしなばがら、今むやみに合祀を励行し、その跡を大急ぎに滅尽し、古蹟、古文書、什宝をややもすれば精査を経ずに散失亡失するようでは、わが邦が古いというばかりで古い証拠がなくなるのである。
現に和歌山県の県誌編纂主裁内村義城氏は新聞紙で、今までのような合祀の遣り方では、到底確実な郷土誌の編纂は望むことができない、と公言している。日高郡には大塔宮が熊野落ちのおりお過ごしになった御遺蹟が多かったが、審査しないうちに合祀のためにすでに絶滅したものが多いという。有田郡なども南朝の皇孫が久しくお拠りになった所々を合祀のために分からないことに成ってしまった。
また一般人は史蹟と言うと、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所だけを保存すべきように考えるようだが、実はそうではない。近世欧米で民俗学(フォルクスクンテ)が大いに起こり、政府も個人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵された。
例えると一箇人に伝記あるのと均しく、一国に史籍がある。さて一個人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳にないことも、幼少のとき用いた玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣した寺社や祭典を見ると、多少自分幼少の事歴を明らかにすることができるように、地方ごとに史籍に載らない固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等がある。これを精査するのに道をもってすると、記録のみでは知ることができない一国民、一地方民の有史書前の履歴が明らかになるのだ。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、名門貴族の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らかにするには、必ず民俗学の講究を必要とする。
紀州日高郡産湯(うぶゆ)浦という大字の八幡宮に産湯の井がある。土地の言い伝えに、応神帝降誕のみぎり、この井の水を沸(わ)かしてお洗い申し上げたという。そのとき用いた火を後世まで伝えて消さなかった。村中近年までこの火を分かち、式事に用いた。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡であったことを知るだけではなく、古えわが邦に特に火を重んずる風習があったを知ることができる。実に有記録前の歴史を視るのに大要がある。しかしながら例の一村一社制でこの社を潰そうとしたため、村の小学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、これは国体を害する大事であるといって大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、頭立った者八人が収監されて数ヶ月が経ったが、無罪放免でその社は合祀を免れた。
その隣村に衣奈(えな)八幡がある。応神帝の胞衣(えな)を埋めた跡と言い伝え、なかなかの大社で、直立の石段百二段は近村の寺塔よりはるかに高い。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威あらたかであったが、例の基本財産を作るといって大部分の冬青(もちのき)林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐(とりもち)を作らせた。基本金はどうか知らないが、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることはおびただしい。これらも研究の仕方によっては、皇家に上古、胞衣(えな)をどう処理せられたかが分かる材料ともなるはずである。
その辺にある三尾川(みおかわ)という所は、旧家が十三、四家あり、家々ごとの祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲んでいた。祖先崇拝の古風が残っていたのだ。それなのに、かかる社十三、四を一所に合集させて、その基本財産を作れといって件の老樟をことごとく伐らせた。そして今度はその十数社をことごとく他の大字へ合併させたのだ。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収