3-10 比丘尼剥
日高郡龍神村大字龍神は古来温泉で著名だが、その地に本誌巻1、117ページに載った徳島県の濁が淵同様の話がある。ただし所の者はこれを隠して言わない。
昔、熊野詣りの比丘尼が1人ここに来て宿ったが、金を多く持っているのを見て主人が見て、徒党を組んで鶏がとまる竹に湯を通し、夜中に鳴かせてもう夜明けが近いとあざむき、尼を出立させて途中で待ち伏せして殺し、その金を奪った。そのとき、尼は怨んで、永劫ここの男が妻に先立って死ぬようにと呪って絶命した。そこを比丘尼剥という。
その後、果たして龍神の毎家、夫は早死にし、寡婦世帯が通例となって今に到る。その尼のために小祠を立て祀り込んだが、とんと祟りは止まないそうじゃ。
10年ばかり前に、東牟婁郡高池町から船で有名な、一枚岩を観に行ったとき、古座川を鳶口で筏を引いて、寒い水中を引き歩く辛苦をいたみ問うたところ、この仕事は厳しく体に障り、真砂という所の男子はことごとく50以下で死ぬのが普通であるが、故郷を離れ難くて皆々このように渡世していると答えた。
龍神に男子の早死にが多いのも、何かそのわけがあることで、比丘尼の呪いのせいではないことはもちろんのことながら、この辺りは昔の熊野街道で、いろいろ土地の者が旅客に不正な仕向けもあったことと思う。第1巻121ページに出した熊野詣りの手鞠唄なども、じつは、新しく髪を結って熊野へ詣る娘を途上で古寺に引き込み、強辱する様子を淫微の裏に述べたものらしい。
明治8年頃、和歌山の裁縫匠で予の父の持ち家に住んだ者が熊野のある村で、村中の人がことごとく相撲を見に行ったところへ行き合わせ、大石で頭を砕かれ、所持品をことごとく奪われて死んだこともあった。
西鶴の本朝二十不幸巻2「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋」の1章など、小説ながら拠り所があったのだろう。序に言う、龍神辺りの笑い話に、ある寡婦多分現存の人だが夏の日、○を門外で乾かし、自分の部屋で退屈のあまり単独秘戯を弄していたところ、急ににわか雨がやってきて、○が流れるとの児童の叫び声に驚き、角先生(ガウデ・ミン)(※?※)を足に結び付けたまま走り出したのを見て、この暑いのに主婦は足袋を履いていると、児童一同はいよいよ叫んだという。
虚実は知らないが、似た境遇は伝説を生ずるもので、インドでも2000年以上昔にすでにこんなことがあった。唐の義浄訳根本説一切有部芯芻尼毘奈耶巻17に曰く、(中略)、仏はこれを聞いて、尼を波逸底迦罪犯とした。