(蛇の足4)
ガドウ教授蛇の行動を説いて曰く、蛇は有脊髄動物中最も定住するもので、餌と栖さえ続く中は他処へ移らず、故に今のごとく播るには極めて徐々漸々と掛かったであろう。その動作迅速で豪い勢いだが、真の一時だけで永続せぬ事南方先生の『太陽』への寄稿同然とは失敬極まる。
蛇の胴の脊髄とほとんど相応した多数の肋骨を、種々変った場面に応じて巧く働かせて行き走る。その遣り方はその這うべき場面に少しでも凸起の、その体の一部を托すべきあるに遇わば、左右の肋骨を交も引き寄せて体を代る代る左右に曲げ、その後部を前める中、その一部(第三図[#図省略])また自ら或る凸起に托り掛かると同時に、体の前部今まで曲りおったのが真直ぐに伸びて、イからハに進めらる。
この動作をもっとも強く助勢するは蛇の腹なる多くの横濶い麟板で、その後端の縁が蛇が這いいる場面のいかな微細の凸起にも引っ掛かり得る。この麟板は一枚ごとに左右一対の肋と相伴う。されば平滑な硝子板を蛇這い得ず。その板をちょっと金剛砂で磨けば微細の凸起を生ずる故這い得。
また蛇の進行を示すとてその体上下に波動し、上に向いた波全く地を離れ、下に向いた波のみ地に接せるよう描いた画多きも、これ実際あり得ぬ事じゃと。第四図[#図省略]は予在英中写し取った古エジプトの画で、オシリス神の像を毀した者を大蛇ケチが猛火を吐いて滅尽するところだが、蛇が横に波曲すればこそ行き得ると知った人も、横に波動するを横から見たところを紙面に現わすは非常な難件故、今日とても東西名手の作にこの古エジプト画と同様、またほぼ相似た蛇を描いて人も我も善く出来たと信ずるが少なからぬ。
ガ氏また古画に蛇螺旋状に木を登るところ多きを全く不実だといったが、これは螺旋状ならでも描きようがあると思う。されば神戦巻第一図に何の木をも纏わず、縁日で買った蛇玉を炙り、また股間の腫を押し潰して奔り出す膿栓同様螺旋状で進行する蛇が見えたは科学者これを何と評すべき。ただし既に述べ置いた通り、美術としては絵嘘事も決して排すべきにあらねど、ここにはただかかる行動を為す蛇は実際ないてふ小説を受け売りし置く。
予の宅に白蛇棲んでしばしば形を現わすが、この夏二階の格子の間にその皮を脱ぎしを見付け引き出そうとすれど出ず。それは只今言った通り蛇の腹の多数の麟板の後端が格子の木の外面にある些細な凸起に鈎り着いて、蛻を損せずに尾を持って引き出し得ぬと判り、格子の外なりし頭を手に入れその方へ引くと苦もなく皮を全くし獲れた。無心の蛻すらかくのごとくだから、活きた蛇が穴中に曲りその腹の麟板が多処に鈎り着き居るを引き出すは難事と見え、『和漢三才図会』に、穴に入る蛇は、力士その尾を捉えて引くも出ず、煙草脂を傅くれば出づ。またいわく、その人左手自身の耳を捉え右手蛇を引かば出づ、その理を知らずといえり。この辺で今伝うるは、一人その尾を捉え他の一人その人を抱きて引けば出やすしと。
十六世紀のレオ・アフリカヌスの『亜非利加記』第九篇には、沙漠産ズッブてふ大蜥蜴をアラブ人食用す。この物疾く走る。穴に入りて尾のみ外に残るをいかな大力士が引いても出ず。やむをえず鉄器もてその穴を揺り広げやっと捉え得とあるも似た事だが、蜥蜴の腹の麟板は、物に鈎る端を具えぬから、此奴はその代り四足に力を込めてその爪で穴中の物に鈎り着くのであろう。
この通りの拙文を訳してロンドンで出したるに対し、一英人いわく、日本人は皆一人で蛇の尾を捉えて引き出し得ぬらしいが、自分はかつてインドで英人単身ほとんど八フィート長の蛇を引き出すを見たと。ブリドー大佐の説には、往年インドで聞いたは、土着の英人浴中壁の排水孔より入り来った蛇がその孔より出で去らんとする尾を捉え引いたが蛇努力して遁れ行った。翌日また来れど去るに臨み、まず尾を孔に入れ、かの人を見詰めながら身を逆さまに却退したとありしを見れば、剛力の人がいっそ伝説など知らずにむやみに行けば引き出し得るも、常人にはちょっとむつかしい芸当らしい。
こんな事から敷衍した物か、蛇の尻に入るは多くは烏蛇とて小さくて黒色なり。好んで人の尻穴に入るにその人さらに覚えずとぞ。この蛇穴に少しばかり首をさし入れたらんには、いかに引き出さんとすれども出る事なし。寸々に引き切っても、首はなお残りて腹に入りついに人を殺す(とはよくよく尻穴に執心深い奴で、水に棲むてふ弁りがないばかり、黒井将軍が報されたトウシ蛇たる事疑いを容れず)。これを引き出すに「猿のしかけ」という木の葉にて捲き引き出せば、わずかに尾ばかり差し出たるにても引き出すといえり云々と、『松屋筆記』五三に出づ。
back next
「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収