蛇に関する民俗と伝説(その29)

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蛇に関する民俗と伝説インデックス

  • 名義
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  • 蛇と財宝
  • 異様なる蛇ども
  • 蛇の足
  • 蛇の変化
  • 蛇の効用
  • (付)邪視について
  • (付)邪視という語が早く用いられた一例

  • (蛇の足3)

     イタリアのグベルナチス伯説に、露国の古話に蛇精が新米寡婦方へその亡夫に化けて来て毎夜ともに食い、同棲して、あさに達し、その寡婦火の前のろうのごとくせ溶け行く、その母これに教えて、かれと同食の際わざとさじおとし、拾うためうつむいてかれの足を見せしむると、足がなくてニョッキリ尾ばかりあったので、蛇精が化けたと判り、寡婦寺にもうで身をきよめたといい、北欧の神話にも、ロキス蛇が馬に化けた時足から露顕したといい、インド『羅摩衍譚ラーマーヤナ』に、雌蛇のみ能く雄蛇の足をわきまえ知るとある。

    これらは皆夫の陰相を尾と称え、その状を確かに知るは妻ばかりという寓意ぐういだと解った。グ伯は梵学者また神誌学者としてすこぶる大家だが、ややもすれば得意の言語学に僻して、何でも陰具に引き付け説く癖がある。蛇の足をうかがうと尾だったてふは、単に蛇は主として尾の力で行くと見て言ったと説かば、陰具などを持ち出すにも及ぶまい。

    回教学有数の大著、タバリの『編年史』にいわく、上帝アダムを造り諸天使をしてこれを敬せしめしに、エブリスわれは火より造られたるにアダムは土で作られたから、劣等の者を敬するに及ばぬといい、帝いかりてエを天より逐い堕す。エ天に登りて仕返しをと思えど、天の門番リズワンの大力あるをおそれ、蛇を説いて自分を呑んで天に往きそっと吐き出さしめ、エヴァを迷わしアダムを堕した。

    アダム夫妻もと只今の人の指と足のゆびの端にある爪の通りの皮を被りいたが、惑わされて禁果をうとその皮たちまち堕ち去り丸裸となり、指端の爪をて今更楽土の面白さをおもうても追い付かず。

    蛇もまた人祖堕落の時まで駱駝らくだごとき四脚を具え、人をけてはエデン境内最も美しい物じゃったが、禁果をぬすみ食った神罰たちまち至って、楽土諸樹木の四の枝がれ下り、四つの罪人永く追いやられ、アダムはヒンドスタンに、エヴァはジッダに、蛇はイスパハンに、エブリスはシムナーンに謫居たっきょした。

    上帝蛇をにくむの余りその四脚を去り、とこしえに地上をい行かしむと。今の欧米人これを聞いたら笑うに極まっているが、実は臭い物身知らずで、彼らの奉ずる『聖書』にも十二世紀まではかかる異伝を載せあった由。

     日本でも釈迦死んで諸動物皆来り悲しみしに、蚯蚓みみずだけは失敬した故罰として足なしにされたというが、紀州には蛇の足に関する昔話あり、西牟婁郡水上てふ山村で聞いたは、トチワビキてふ蛙、昔日本になかったが、トチワの国より蛇に乗って渡り来る。報酬に脚をろうと約したに今以て履行せず、蛇恨んで出会うごとこの蛙を食うに、必ず脚より始むという。その蛙を検するに何処にもある金線蛙とのさまがえるだった。トチワすなわち常磐ときわ国については、大正元年十一月の『人性』に拙見を出した。

    似た話もあるもので、東牟婁郡高田村に代々葬後墓をあばき尸をぬすみ去らるる家あり。これはその先祖途中で狼にわれんとした時、われに差し迫った用事あり、それさえ済まば必ず汝に身を与うべしと紿あざむいてそのまま打ち過ぎしを忘れず、その人はもちろん子孫の末までもその尸を捉り去り食うという。上述水上の里話を聞いてから試すと、予が見得た限り蛇は蛙を必ず脚より食うが、亀は頭より蛙を食う。

    しかるに、アストレイの『新編紀行航記全集ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オヴ・ヴォエージス・エンド・トラヴェルス』巻二の一一三頁に、西アフリカのクルバリ河辺に、二十五また三十フィートの大蛇あって全牛をむが、角だけは口外に留めて嚥む能わずとポルトガル人の話を難じ、すべて蛇は一切の動物を呑むに首より始む、角を嚥み能わずしていかでか全牛を呑み得んと論じある。なるほど鼠などを必ず首から呑むが、右に言った通り蛙をば後脚から啖い初むる故一概に言う事もならぬ。インドのボリグマ辺の俗信に、虎は人を殺して後部より、豹は前方より啖うという(ボールの『印度藪榛生活ジャングル・ライフ・イン・インジア』六〇五頁)。

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    「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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