(民俗(3)11)
『風俗通』に、馬一匹という事、馬を度ると一匹長かった故とか、馬死んで売ると帛一匹得たからとか種々の説を列べた中に、〈あるいはいわく、馬は夜行くに目明るく前四丈を照らす、故に一匹という〉とある。
それに劣らず怪しい説が西洋の俗間に行われ、馬の眼に物大きく見え、人も巨人と見えるから馬を御し能うという。それにどうしても人に従わぬ馬あるは、その眼の水晶体平らにて物大きく見えぬものか。しからば眼鏡を掛けさすがよい。ただし馬の眼果して物を大に視るとするも、何もかも皆廓大さるるから諸物大小の割合は少しも常態を外れず、人は馬の眼に依然他の馬より小さく見えるはずと論じた人あり(一九一六年六月二十四日の『随筆問答雑誌』五〇九頁)。
この事は『安政三組盃』てふ講談筆記にもあれど、日本で伝うるところはやや西説と異なり、奔馬の前へ人が立ち向えば、その人のみ馬眼に非常に大きく見えるというので、水晶体の何のと物理学上の論でなく、心理学上の事と思う。前項に述べた通り、馬ほど喪心しやすき畜生なきと同時に、この損点がまた得点となりて、たちまち眼前へ立ちはだかった人を極めて怖るる余り、畏れ入りて静まり落ち着くのかと想う。
田辺町に名高い○永とて不具の痴漢五十余歳で数年前死んだ。この者いかに狂う馬の前でも何の恐るるところなく進み出て、これを静むる事百に一を失わなんだが、死する前に一回遣り損ない指を噛まれた。この痴人年老いて馬を制する力衰えたのか、馬の素質に種々あるのかちょっと分らぬが、面白い研究問題じゃ。
古い小栗の戯曲(『新群書類従』五)に、判官「畜生には叶わぬまでもせみょう(宣命か)含めると聞く、某がせみょうを含めんに心安かれ」とて、そのせみょうの詞を出し居る。多少そんな術が利いたのだろう。
『甲陽軍鑑』巻十六に、馬の百曲を直すよう云々、左の頸筋に指にて水という字を書き、手綱をよく握りてすなわち不動の縛の縄観じて馬の額に取鞆(?)で卍字を書く、同じ鞭先を持ち、随え叶えと三遍唱えて掲諦掲諦はらそう掲諦ぼうしい娑訶と唱えて飼えば、いかなる狂馬も汗をかき申すべきなり秘すべしとあるが、今時そんな真似をすると人自身の方が狂馬のように見える。
この篇発端に、梵授王が命を救われた智馬に半国を分ち与えんとした事を述べたが、支那でも〈人難を免るるは、その死なり、これを葬り帷を以て衾と為す、馬功あれば、独り忘るべからず、またいわんや人においてをや〉(『淮南子』)といった。従って名馬を廟祀し、封官し、記念のために町を建てた外国の例を初めの項に出した。本邦でも秀吉の馬塚(『摂陽群談』九)、吉宗の馬像(『甲子夜話』五一)、その他例多く、馬頭観音として祀ったのも少なからぬ。
富田師の『秘密辞林』に、これは明王観音両部属の尊で、馬口呑納余さざる食の義と、飢馬草を食うに余念なき大悲専念の義と、慈悲方便もて大忿怒形を現わし、大威日輪となりて(上に引いた日神スリアの事参照)、行者の暗冥を昭し、速やかに悉地を得せしめんとする迅速の義と三あり、今世俗に馬の守護神として尊崇せられ、馬の追福のためにその石像を路傍に建つる由言い居る。
けだし仏教つとに三獣の喩あり、兎や鹿は水を渡るに利己一辺だが、馬は人を乗せて自他ともに渡る。そのごとく声聞や縁覚よりは菩薩迥かに功徳殊勝なりとし、観音救世の績殊に著しいから、前述五百商人を救うた天馬などをその化身とし、追々馬は皆観音の眷属としたのじゃ。『天正日記』に奉行青山常陸介の衆の馬、浅草観音寺内に乾した糒を踏み散らし、寺家輩と争論となる、常陸衆、観音の眷属たる馬が観音の僧衆の料を踏んだればとて、咎め立てなるまじと遣り込め閉口せしめたと出づ。
欧州と等しくアジアにも馬を穀精とする例、インドのゴンド人クル人は、穀精として馬神コド・ペンを拝す。初午の日、穀精の狐神をわが国で祭る(『考古学雑誌』六巻二号拙文「荼吉尼天」参照)。維新前はこの日観音をも祀ったのが多い。スウェン・ヘジン説にチベットの聖山カイラスへ午歳ごとに参詣群集を極むとあるも、馬と観音の関係からだろう(一九〇九年版『トランス・ヒマラヤ』巻二、一九〇頁)。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収