(民俗(3)12)
さて北アジアの諸民族に尊ばるるシャーマンは、やや奥州の馬形の巫神オシラサマに似た馬頭杖を用いて法を行い、霊馬に乗って冥界に馳せ往き、神託を聴き返ると信ぜられ、わが邦にも巫道に馬像を用いたらしく、『烏鷺合戦物語』に「寄人は今ぞ寄せ来る長浜や、葦毛の駒に手綱ゆりかけ」てふ歌あり、支那人も本邦の禅林でも紙馬を焼き、インドのビル人は山頂の石塚に馬の小土偶を献ずれば、死者の霊その像の後の小孔より入りて楽土に
専ら野馬を猟りて食った時代は
例せばインドのギルハ鬼は水に住み人形無頭で、アーヴィングの『コロンブス伝』に頭なき幽霊騎馬した記事あり。以前四月二十四日の夜、福井市内に柴田勢の亡魂の行列あり、その大将騎馬にて首がなかった(『郷土研究』二巻九号、寺門氏報)。それから笠井氏の報告で名高くなった阿波の首なし馬の伝説があって、盗人に首を
また古スウェーデンの馬怪ネックは蒼灰色の美しい馬と現じて海浜にあり、その蹄後ろ向きになりいるので判る。人知らずして騎れば、たちまち海に飛び入り溺殺す(ボーン文庫本、ケートレイの『
『嬉遊笑覧』八に予言をなす者後ろ仏を持つとあり。一九〇六年版『
支那やインドに堤を築くとか勝利を祈るとか馬を殺し沈めて祈る事多く、日本にもその例あったものか『近江輿地誌略』八五に、浅井郡馬川は洪水の時白馬出て往来人を悩ますという。『沙石集』『因果物語』等に馬を虐待してその霊に苦しめられた譚多い。されば馬が悪鬼となって返報するも無理ならず。欧州でも、地獄の大侯ガミギンは小馬の形といい、馬怪ルー・ドラペーは小児を百五十人までその尻に載せ去って復さずという。