(民俗(3)13)
宮武氏が出した『此花』四枝に、紙張子の馬を腰付けて踊り走る図三を出し「ほにほろ考」を書かれた。これは寛政頃流行り初めた物らしく「上るは下るは」と名づけたらしいとあって、馬上の唐人また武者姿で所作して見せるを、一人奇な声で、「ソリャ上るは上るは、雷の子でほにほろ/\/\下るは/\」と囃した。
ホニホロはオランダ語らしいからこの腰付馬もオランダ渡来だろうと言われたが、右の引句ばかりではこの装いまた芸当を「上るは下るは」といいホニホロと言わず、ホニホロは単に囃の詞らしく、風を含み膨れる体を帆に幌とでも讃えたのでなかろうか。馬に縁ある打球戯をポロというほかに、ホニホロらしい洋語を知らぬ。ただしこの芸当オランダから来ただろうとはほぼ中りいる。
というは、昔英国の五月節会に大流行だったモリス踊のホッビー・ホールスとて頭と尾は木造で彩色し、胴は組み合せで騎手の腰に合せ、下に布を垂れてその脚を覆す造馬がそれによく似居る。これはもとモールス人が始めた踊りで、スペインでモリスコと呼び、仏国では十五世紀に行われて、モリスクといった。英国へはスペインから移ったらしく、十六世紀にもっとも行われた。
ピュリタン徒繁昌の際五月節会とともに禁止され、王政恢復後また行われたがいつとなく廃れおわる。それを予の知己の王立考古学会員などが、再興いな三興しようと企ていたが、戦争でジャンになったらしい。とにかくホニホロなる語を舶来と思うなら、欧州諸国語でホッビー・ホールス(英語)を何というかを調べなと好事家に告げ置く。
さてスウェン・ヘジンの『トランス・ヒマラヤ』にチベットのタシ・ルンポの元日節に、ネポール人が身の前後に燈籠各一を付け歌いながら歩む。前の燈籠は馬首、後のは馬尾を添えたから、あたかも火の点る馬に乗った体だったとあるより見れば、この類の考案は欧州特有のものでなかったろう。
似た例一つ挙げんに、今は日本へも移し入れただろうが、三十年前予米国にあった時、田舎廻りの興行師が美麗な木馬を輪様に据え列ね、機械で動かせばぐるぐる駈け廻ると同時に、馬の首尾交互上下して奔馬を欺く。小児はもとより年頃の男女銭を払い時間を定め、それに乗りて歓呼顧盻しいた。酒ほどにはとても面白からぬ故、その遊びの名さえ聞かなんだが、今年ようやく右様の趣向も西洋独特のものでなきを知った。
それ『大清一統志』巻二六四を御覧、『方輿勝覧』を引いて、四川の大輪山、〈群峰環り列なる、異人奇鬼のごとし、あるいは車に乗り蓋を張る、あるいは衣※峩冠[#「日/免」、455-9]す、あるいは帯甲のごとく、あるいは躍馬のごとく、勢い奔輪のごとき故に名づく〉。今より七百年ほど前既にかかる構思が宋人にあったのだ。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収