(民俗(3)10)
『郷土研究』一巻八号斎藤真氏説に、陸前の駒ヶ嶽、毎年消え残りの雪が白い奔馬形を現わす、これを見て年の豊凶を占う農夫もある由。『著作堂一夕話』に出た富士の残雪、宝永山辺凹かな処に人形を成す年は豊年で、見えぬ年は凶作、これを農男と名づくとあるに似居る。『郷土研究』同巻九号で見ると、陸中と秋田境の駒形山も毎年雪解け時に、その八合目ほどの処に白馬踊る体を現ず。昔神がここへ乗り捨てた馬が故郷を恋うて顧み嘶くのだそうで、その姿を見て農家が農事を候う。
これらと相似れど、京都東山の大文字火同然人造に係る壮観が英国にある。そのバーク州の白馬というは、絶頂の高さ海抜八五六フィートある白馬山の北側巓より少し下に塹り付けた長三七四フィート、深さおよそ二フィートの巨馬像で、面積二エーカーほどあり。
『北瑣談』二に東山に七月十六日の夜立つる大文字の火唐土にもなしと孔雀先生も書き置かれたり、横の一画二十九丈、左の画四十九丈二尺、右の画四十七丈七尺八寸、余も如意嶽に上り、その穴を見しが広大なる物なりとあれば、日本の方が勝ちらしい。
件の馬像は、輪廓もっとも麁末ながら、表土を去って白堊を露わす故、下の谷から眺むれば、十分馬跳ぬるところと見える。東山の大文字火は古え北辰を祭った遺風というが(『嬉遊笑覧』十)、この白馬像は由来分らず。
アルフレッド大王がデーン人に大勝の記念物といえど、実はローマ人の英国占領よりも古いらしい。所の者どもたびたび像内へ草木が生え込むを抜き浄め、以前はその時節会を設け種々の競戯し、近隣のみかは、英国中より勇士来集して土地の勇士と芸競べせしも、何となくやんでいまだ六十年にならぬ。
熊楠いう、これは我邦に多き駒形明神駒形石(『木曾路名所図会』信州塩灘駅条下に出づ、『山島民譚集』一参照)と等しく、上世馬を崇拝した遺跡であるまいか。古欧州で馬崇拝の例、ギリシアの海大神ポセイドン、農の女神デメテル、いずれも本は馬形で、ガウル人は馬神ルジオブス、馬女神エポナを崇めた。欧州諸国で馬を穀物の精とする例多し。これ主に馬は農業に古くより使われたからだろう。
またインドで曙光神アスヴィナウは、日神スリヤその妃サンニアと牡馬牝馬に化けて交わり生んだので三輪の驢車に乗り、日神自身は翡翠色の七頭の馬に一輪車を牽かせて乗ると類似して、ギリシアの日神ヘリオスは光と火を息する四の雪白馬が牽く車に乗る(第六図[#図省略])。第七図[#図省略]は、デンマーク国古青銅器時代の青銅製遺物で、馬が日の車を牽くを示すらしく、その日に充てた円盤に、黄金を被せ、美なる螺旋状飾紋あり。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収