(蛇の変化3)
それから三河で伝うるは、蝮は魔虫で、柳かウツギの木で打ち殺すと立ちどころに何千匹となく現われ来ると(早川孝太郎氏説)。盛夏深山の渓水に、よく蝮が来て居る。それを打ち殺して、暫くして往き見ると、多分他の蝮が来て居るは予しばしば見た。
紀州安堵峯辺でいう、栗鼠は獣中の山伏で魔法を知ると、これややもすれば樹枝に坐して手を拱し礼拝の態を為すに基づく。さて杣人一日山に入りて儲けなく、ちょっと入りて大儲けする事もあればこれも魔物なり。杣人山中で栗鼠に会うに、杣木片すなわち斧で木を伐った切屑また松毬を投げ付けると、魔物同士の衝突だからサア事だ、その辺一面栗鼠だらけになると。
また日高郡丹生川大字大谷に、蚯蚓小屋ちゅうは昔ここの杣小屋へ大蚯蚓一疋現われしを火に投ずると、暫くの間に満室蚯蚓で満たされその建物倒れそう故逃げ帰った、その小屋址という。随分信られぬ話のようだが何か基づく所があるらしい。
明治十八年、予神田錦町で鈴木万次郎氏の舅の家に下宿し、ややもすれば学校へ行かずに酒を飲み為す事なき余り、庭上に多き癩蝦蟆に礫を飛ばして打ち殺すごとに、他の癩蝦蟆肩を聳やかし、憤然今死んだ奴の方へ躍り来た勇気のほど感じ入ったが、それをもまた打ち殺し、次に来るをも打ち殺し、かくて四、五疋殺したので蛙も続かず、こっちも飽きが出て何しに躍り来たか見定めなんだが、上述の蝮を殺した実験もあり、また昔無人島などで鳥獣を殺すとその侶の鳥獣が怕れ竄れず、ただ怪しんで跡より跡より出で来て殺された例も多く読んだから攷うると、いかなる心理作用よりかは知らぬが、同類殺さるを知りながら、その死処に近づく性の動物が少なからぬようで、蚯蚓などの下等なものは姑く措き、蝮、栗鼠ごときやや優等のもの多かった山中には、一疋殺せば数十も集まり来る事ありしを右のごとく大層に言い伝えたのかと想う。
ただしかかる現象を実地について研究するに、細心の上に細心なる用意を要するは言うまでもないが、人の心を以て畜生の心を測るの易からぬは、荘子と恵子が馬を観ての問答にもいえる通りで、正しく判断し中てるはすこぶる難い。
たとえば一九〇二年に出たクロポートキン公の『互助論』に、脚を失いて行き能わぬ蟹を他の蟹が扶け伴れ去ったとあるを、那智山中読んで一月経ぬ内に、自室の前の小流が春雨で水増し矢のごとく走る。流れのこっちの縁に生えた山葵の芽を一疋の姫蟹が摘み持ち、注意して流れの底を渡りあっちの岸へ上り終えたところを、例の礫を飛ばして強く中てたので半死となり遁れ得ず、爾時岩間より他の姫蟹一疋出で来り、件の負傷蟹を両手で挟み運び行く。
この蟹走らず歩行遅緩なれば、予ク公の言の虚実を試すはこれに限ると思い、抜き足で近より見れば、負傷蟹と腹を対え近づけ両手でその左右の脇を抱き、親切らしく擁え上げて、徐ろ歩む友愛の様子にアッと感じ入り、人を以て蟹に及かざるべけんやと、独り合点これを久しゅうせし内、かの親切な蟹の歩み余りに遅く、時々立ち留まりもするを訝り熟視すると何の事だ、半死の蟹の傷口に自分の口を接て、啖いながら巣へ運ぶのであった。これを見て予は書物はむやみに信ぜられぬもの、活動の観察はむつかしい事と了った次第である。
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「蛇に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収