博物誌(はくぶつし)
『博物誌』(Naturalis Historia)は、古代ローマの博物学者、政治家プリニウスが著した百科全書的な書物。
全37巻。地理学、天文学、動植物や鉱物などあらゆる知識に関して記述している。
今日から見れば荒唐無稽な内容も含まれる。
博物志
南方熊楠の随筆:虎に関する史話と伝説民俗(その1)
プリニの『博物志』に拠れば生きた虎をローマ人が初めて見たのはアウグスッス帝の代だった。それより前に欧州人が実物を見る事極めて罕だったから、虎が餌を捕うるため跳る疾さをペルシアで箭の飛ぶに比べたのを聞き違えてかプリニの第八巻二十五章にこんな言を述べて居る。
曰く「ヒルカニアとインドに虎あり疾く走る事驚くべし。子を多く産むその子ことごとく取り去られた時最も疾く走る。例えば猟夫間に乗じその子供を取りて馬を替えて極力馳せ去るも、父虎もとより一向子の世話を焼かず。母虎巣に帰って変を覚ると直ちに臭を嗅いで跡を尋ね箭のごとく走り追う。その声近くなる時猟夫虎の子一つを落す。母これを銜えて巣に奔り帰りその子をきてまた猟夫を追う。また子一つを落すを拾い巣に伴い帰りてまた拾いに奔る。かかる間に猟師余すところの虎の子供を全うして船に乗る。母虎浜に立ちて望み見ていたずらに惆恨す」と。
南方熊楠の随筆:兎に関する民俗と伝説(その5)
プリニウスの『博物志』八巻八一章に兎の毛で布を織り成さんと試みる者あったが皮に生えた時ほど柔らかならずかつ毛が短いので織ると直ぐ切れてしもうたと見ゆ、むやみに国産奨励など唱うる御役人は心得て置きなはれ。
南方熊楠の随筆:田原藤太竜宮入りの話(その18)
西洋の竜とても、ローマの帝旗として竜口を銀、他の諸部を彩絹で作り、風を含めば全体膨れて、開いた口が塞がれなかった、その竜に翼なし。さてローマ帝国のプリニウスの『博物志』に、竜の事を数章書きあるが、翼ある由を少しも述べず、故にフ氏が思うたほど、東西の竜が無翼有翼を特徴として区別判然たるものでない。
南方熊楠の随筆:田原藤太竜宮入りの話(その40)
馬琴が言うた通り巴蛇象を食い三年して骨を出すと『山海経』にあれば古く支那で言うた事で、ローマのプリニウスの『博物志』八巻十一章にも、インドの大竜大象と闘うてこれを捲き殺し地に僵るる重量で竜も潰れ死すと見ゆ、
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その28)
支那の『宣室志』にいう、桑の薪で炙れば蛇足を出すと。オエン説に米国の黒人も蛇は皆足あり炙れば見ゆという由。プリニウスの『博物志』巻十一に、蛇の足が鵝の足に似たるを見た者ありと見ゆ。
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その6)
昔ローマとカルタゴと戦争中アフリカのバグダラ河で長百二十フィートの蛇がローマ軍の行進を遮った。羅の名将レグルス兵隊をして大弩等諸機を発して包囲する事塁砦を攻むるごとくせしめ、ついにこれを平らげその皮と齶をローマの一堂に保存した(プリニの『博物志』八巻十四章)。
南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その28)
それから古ローマのネロ帝は荒淫傑出だったが、かつて揃いも揃って半男女の馬ばかり選り集めてその車を牽かしめ、異観に誇った(プリニウスの『博物志』十一巻百九章)。以前ローマ人は、半男女を不祥とし、生まれ次第海に投げ込んだが、後西暦一世紀には、半男女を、尤物の頂上として求め愛した。
南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その31)
プリニウスの『博物志』巻八章六六にいわく、馬は十一月孕み、十二月に産む(『淵鑑類函』に『春秋考異郵』を引いて、〈月精馬と為り、月数十二、故に馬十二月にして生む〉というは、東西月の算えようが差うのだ)。
南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その41)
プリニウスは馬が血縁を記憶して忘れぬとて、妹馬が自分より一年早く生まれた姉馬を敬する事母に優る、また眼覆して母と遊牝せしめられた牡馬が眼覆しを脱れて子細を知り、大いに瞋りて厩人を咬み裂いたのと崖から堕ちて自滅したのとあるといった(『博物志』八巻六四章)。