(心理8)
『五雑俎』五に、宋の張耆四十二子あり、
〈諸姫妾の窓閣皆馬厩に直す、馬○○するごとに縦ってこれを観せしめ、随いて御幸するあれば孕を成さざるなし〉(『日本紀』武烈紀八年の条参照)。
トルコのソリマン二世一日睾丸抜いた牡馬が戯るるを睹、宦者も丸を去ったばかりでは不安心とて、その根部を切り尽さしめ後帝世々その制を沿襲した。けだしその推察通り宦者が婦女を弄ぶ例は尠なからぬ(タヴェルニエー『土耳古帝宮中新話』一六七五年版二八頁、アンシロン『宦者攻撃論』一七一八年版二〇六頁、『人性』八巻四号、緒方正清博士「支那および韓国の去勢について」)。
さて緊那羅も本馬芸や歌舞を業とした部民で、その女が自分らより優等な乾闥婆部に娶らるるを、あたかも乾闥婆部の妻女が貴人に召さるるを名誉と心得て同然に怡んだので、本邦に例の多かった大工の棟梁の娘が大名の御部屋となり、魚売りの娘がその棟梁の囲い者となりていずれも出世と心得たに異ならぬ。
プリニウスは馬が血縁を記憶して忘れぬとて、妹馬が自分より一年早く生まれた姉馬を敬する事母に優る、また眼覆して母と遊牝せしめられた牡馬が眼覆しを脱れて子細を知り、大いに瞋りて厩人を咬み裂いたのと崖から堕ちて自滅したのとあるといった(『博物志』八巻六四章)。
アンリ・エチエンの『アポロジ・プー・レロドト』十章に、十六世紀のイタリア人、殊に貴族間に不倫の行多きを攻めた末ポンタヌスの書から畜類に羞恥の念ある二例を引く。一は牝犬がその子の心得違いを太く咬み懲らしたので、次は仮装した子馬と会った母馬が後に暁って数日内に絶食して死んだと馬主の直話だと。
仏典にも『阿毘達磨大毘婆沙論』一一九に、人が父母を殺さば無間地獄に落ちるが、畜生が双親を殺さばどうだと問うに答えて、聡慧なるものは落ちれどしからざるものは落ちずとありて、その釈に、〈かつて聞く一聡慧竜馬、人その種を貪り、母と合せしむ、馬のち暁り知り、勢を断ちて死す〉と見ゆ。『尊婆須蜜菩薩所集論』には、〈御馬師衣を以て頭に纒う、牝馬に合するもの、すなわちこれわが母と知る、還って自らを齧み断つ〉とす。
今日もアラビヤ人など極めて馬の系図を重んじ貴種の馬の血筋を堕さぬようもっとも腐心するを見れば、たまたま母子を配せしめた事もあろう。そのアラビヤ人は今日も同姓婚を重んじ、従妹は従兄の妻と極めているから、婦を求むるに先だち必ずまずその従兄の有無を尋ね許諾を受けにゃならぬ。
かつて『風俗画報』で、泉州に二十余年前まで差当りと称え、年頃の娘に良縁なき時、差当りこれをその叔父に嫁して平気な所ありと読んだが、すなわち系統を重んずるの余習で、国史を繙く者は少なくとも鎌倉時代の末まで邦人殊に貴族間に同姓婚行われたと知る。支那は同姓不婚で名高い国だが、『左伝』『史記』などに貴族の兄弟姉妹と通じ事を起した例が少なからぬ。これも上世同姓婚を尚んだ遺風であろう。
アリヤヌスの『印度記』に、ヘラクレス老いて一女あったが相当な婿なし、王統の絶ゆるを虞れ自らその娘を妻ったとある。フレザーの『アドニス・アッチス・オシリス』二版三九頁に、古ギリシアの王自分の娘を妻とした例多く挙げて基づくところの事実なしにかかる話は生ぜじ、またことごとく邪淫の念のみに起ったと想われぬ、そもそも王家母系のみを重んずる諸国にありては、王の后が真の王権を具し、王は単にその夫たるだけの訳で崇めらるるに過ぎず、したがって王冠が垢の他人の手に移らぬよう王はなるべくその姉妹を后とした。
例せばエジプトの美女王クレオパトラは二人までその兄弟を夫とした。それと同理で后逝かばそのおかげでやっと位に安んじいた王の冠は娘の夫へ移るはず故、后逝きて王なおその位におらんと欲せば、自分の娘を娶って二度目の后と立つるのほかなしとは正論と聞ゆ。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収