(心理9)
本邦にも上世母系統を重んじた例、国史に著われたものあれど今詳述せず。ただ一、二例を挙ぐると、『古事記』に、天孫降下の折随い参らせた諸神を
この両神女なるに子孫の氏ある事疑わしと宣長は言ったが、そこがすなわち母系統で続ける氏もあった証拠で、『古語拾遺』に
『東鑑』文治元年義経都落ちの条に、昔常盤御前が操を破りて清盛に
いずれもその頃まで母系統を重んじた古風が残りいた証だ。柳田氏かつて越前のある神官の家の系図に、十数代の間婦女より婦女に相続の朱線引き夫の名は各女の右に傍注しあったという(『郷土研究』一の十)。八丈島民が母系を重んじたは誰も知るところだ。『左伝』に〈男女同姓、その生蕃せず〉とあるを学理に合ったよう心得た人多きも釈迦キリストなどを生じた名門に同姓婚の祖先あった者少なからず。
植物などにも一花内の
それからインドで一夫多妻の家の妻と一妻多夫の家の妻とが父系統母系統の優劣について大議論したのを読んだが今ちょっと憶い出さぬ。ただし母系統を重んずるにはまた拠るべき道理の争われぬものありて、女はいつ誰の種を孕むやら自分ですら知らぬ場合もあるもの故(仏教にこれを知るを非凡の女とす)、普通に夫の子と認められながら誰の種と判らぬが多い。
されば姓氏を重んずる支那でも、
〈田常斉の国中の女子
フレデリク大王が長大の男女を配偶して強兵を図った先駆で、大きい子を多く生みさえすれば実は誰の種でもよいという了簡、これは格外として、戦国の末わずか十年内に楚王后が生んだ黄歇の子と秦王后が生んだ呂不韋の子が楚と秦の王に立った。故に魏の
しかるに誰の種にもせよ何女が孕み生んだという事は明らかに知りやすいから、某の母は誰、そのまた母は誰と、母系統の方が至って確かだとその流義の者は主張する。これを
進化論から言わば動物を距つる事遠きほどその人間が上等で、動物に一として祖先崇拝の念など起すものなければ、この点においては祖先崇拝国民が祖先構わずの国民より優等だ。
したがって予は祖先崇拝を大体について主張する一人だが、今日の事情が右のごとくだから、正銘の祖先崇拝は今となっては行い得ず、それよりも大切で差し迫った用事が幾らもあるだろうと考う。