(本話の出処系統3)
右様に竜が戦いに負けて人に救いを求めた話が少なからぬに、馬琴はその『質屋庫』三にそれらを看過して一言せず、湖の竜が秀郷の助力を乞うた譚をただただ唐の将武が象に頼まれて巴蛇を殺し象牙を多く礼に貰うて大いに富んだてふ話を作り替えたものと断じたは手脱りだ(馬琴が言うた通り巴蛇象を食い三年して骨を出すと『山海経』にあれば古く支那で言うた事で、ローマのプリニウスの『博物志』八巻十一章にも、インドの大竜大象と闘うてこれを捲き殺し地に僵るる重量で竜も潰れ死すと見ゆ)、
『質屋庫』より数年前に成った伴蒿蹊の『閑田次筆』二やそれより七十年前出来た寒川辰清の『近江輿地誌略』十一に引いた通り、『古事談』に次の話あれば勇士が竜を助けて鐘を得た話は鎌倉幕府の代既にあったのだ。その文を蒿蹊が和らげたままに概略を写すとこうだ。
三井寺の鐘は竜宮より来た、時代分らず昔粟津の冠者てふ勇士一堂を建つるため鉄を求めて出雲に下る、海を渡る間大風俄に船を覆さんとし乗船の輩泣き叫ぶ、爾時小童小船一艘を漕ぎ来り冠者に乗れという、その心を得ねどいうままに乗り移ると風浪忽ちやむ、本船はここに待つべしと示し小船海底に入りて竜宮に到る、竜宮の殿閣奇麗言うべからず、竜王出会いて語らく、従類多く讐敵に亡ぼされ今日また害せらるべし、因って迎え申したから時至れば一矢射たまえと乞う、
諾いて楼に上って待つと敵の大蛇あまたの眷属を率いて出で来るを向う様に鏑矢にて口中に射入れ舌根を射切って喉下に射出す、大蛇退き帰るところを追い様にまた中ほどを射た、竜王出でて恩を謝し何でも願いの品を進すべしという、冠者鐘を鋳んと苦辛する状をいうと、竜王甚だ易き事とて竜宮寺に釣るところの鐘を下ろして与う、粟津に帰り一所に掲げ堂を建つ、広江寺これなり、
時移ってかの寺破壊の後わずかに住持の僧一人鐘の主たりしが、藤原清衡砂金千両を三井寺僧千人に施す、その時、三綱某五十人の分を乞い集め五十両を広江寺の法師に与う、法師悦んでかの鐘を売り三井寺に釣る、広江寺は叡山の末寺なれば衆徒この事を洩れ聞いて件の鐘主の法師を搦め日あらず湖に沈めたとある、誠に『太平記』の秀郷竜宮入りはこの粟津冠者の譚から出たのだ、
さて秀郷竜王を助けた礼に俵米巻絹ともに取り用いて尽きざるを貰うたというた原話は『今昔物語』十六の第十五語だ。概略を述べると今は昔京に年若き男貧しくて世を過すに便なかりしが、毎月十八日に持斎して観音に仕え百寺に詣る事年来なり、ある年九月十八日に例のごとく寺々に詣るに南山階辺へ行く道の山深き所で五十ばかりなる男一尺ばかりなる小蛇を杖の先に懸け行くを見子細を尋ぬると、われは年来如意と申す物を造るため牛角を伸ぶるにかかる小蛇の油を取ってするなり、若き男その如意は何にすると問うた、
知れた事だお飯と衣のために売るのだと答う、若き男小蛇を愍み種々押問答の末ようやく納得させ、自分の着たる綿衣に替えて小蛇を受け、この蛇は何処に在ったかと問いかの小池に持ち行き放ち、さて寺へ行こうと二町ほど過ぎると十二、三ばかりの女形美なるが微妙の衣袴を着たるに逢う、その女いわくわが父母君がわが命を助けくれた恩を謝せんとて迎えにわれを使わしたとて池の方へ伴れて行き、暫く待ちたまえとてたちまち失せぬ、
さて出て来て暫く眼を閉じよという、教えのままに眠入ると思うほどに目を開けという、目を開けて見れば微妙く飭った門あり、また暫く待って七宝で飾った宮殿を過ぎて極楽ごとき中殿に到る、六十ばかりの人微妙に身を荘り出で来り、強いてかの男を微妙き帳床に坐らせ、己れは子あまたある末子なる女童この昼渡り近き池に遊ぶを制すれど聴かず、そのまま遊ばせ人に取られて死ぬべかりしを其に来合せ命を助けたもうとこの女子に聞いた嬉しさに謝恩のため迎え申したと言って、何とも知れぬ旨い物を食わす、
さて主人いわく己は竜王なり、今度の酬に如意の珠を進ぜんと思えど、日本人は心悪しくて持ちたまわん事難し、因ってかの箱をというて取り寄せ開くと中に金の餅一つあり厚さ二寸ばかり、それを取り出して中より破って片破れを箱に入れ今一つの片破れを男に与えて、これを一度に仕わず要に随うて片端より破って仕いたまわば一生涯乏しき事あらじという、
男これを懐にして今は返ろうと言うに、前の女子来て例の門に将れ出で眠らせて池辺に送り出し重ね重ね礼を述べて消え失せた、家に帰れば暫しと思う間に数日経ていた、この事を人に語らずこの金の餅の片破れを破れども破れども元のように殖えて尽きず、入要の物に替えければ万の物豊かに極めたる富人として一生観音に仕えたが己れ一代の後はその金餅失せて子に伝わらなんだという。
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「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収