(心理4)
馬の記憶勝れたる事、アビシニアの馬途中で騎手と離るると必ず昨夜駐った処へ還るとベーカーの『ゼ・ナイル・トリビュタリース・オヴ・アビシニア』に見えるが、支那でも斉の桓公孤竹国を伐ち春往き冬反るとて道を失うた時管仲老馬を放ちて随い行きついに道を得たという(『韓非』説林上)。
エッジウッドがダーウィンに与えた書簡にその小馬を伴れてロンドンに住む事八年の後地方の旧宅へ帰るに、小馬その道を忘れず直ちに本住んだ厩に到ったと見ゆ。小馬は馬の矮小なもので三十二インチより五十六インチ高きもので自ずから種別多し。
紀州などでは見た事なきも土佐駒、琉球駒、薩州種子島の手馬など日本産の小馬だ。支那にも果下馬双脊馬など立ちて高さ三尺を踰えぬものありその駿者に両脊骨ありという。
『大清一統志』一八一に甘粛の馬踪嶺は峻しくて道通ぜなんだが、馬をこの山に失い蹟を追うてたちまち州に達してより道が開けたと出づ。『元亨釈書』に藤原伊勢人勝地を得て観音を安置せんと、貴船神の夢告により白馬に鞍置き童を乗せ馬の行くに任すと山中茅草の上に駐る、その地へ寺を立てたのが鞍馬寺だとある。
馬に憎悪の念強き事、バートンの『メジナおよびメッカ巡礼記』十五章にメジナで至って困ったのは毎夜一度馬が放れ暴れたので、たとえば一老馬が潜かにその絆がれいる※[#「革+巴」、394-6]を滑らしはずし、長尾驢様に跳んで予て私怨ある馬に尋ね到り、両馬暫く頭を相触れ鼻息荒くなり咆り蹴り合う。その時第三の馬また脱け出で首尾を揚げ衝き当り廻る、それから衆馬狂奔してり合い齧み合い打つ叫ぶ大乱戦となったと記す。
かく憎しみと怨み強き故か馬が人のために復讐した話もある(プリニウス八巻六四章、『淵鑑類函』四三三、王成の馬、『奇異雑談』下、
江州下甲賀名馬の事)。
『閑田耕筆』三に、摂州高槻辺の六歳の男児馬を追って城下に出て帰るに、雨劇しく川漲りて詮術なきところに、その馬その児を銜えて川を渡し、自ら先導して闇夜を無難に連れ帰ったので、まず馬を饗し翌日餅を隣家に配ったとある。酒を忘れたものか書いていない。
ちょっと啌のような話だが、ロメーンズの『動物の智慧』に米国のクレイポール教授が『ネーチュール』雑誌へ通信した話を出す。その友人トロント近き農家に働くが、主人の妻の持ち馬全く免役で紳士生活をさせられているものあり、数年前この女橋を踏みはずして深水へ落ち込んだのを、近い野で草食いいた馬が後れず走り行きて銜え揚げて人助の到るを俟った御礼にかくのごとしと。
それから随分怪しいが馬が自殺や殉死をした話も少なからぬ。明の鍾同太子の事で景帝を諫め杖殺さる。
〈同の上疏するや、馬を策ち出づ、馬地に伏して起たず、同咆して曰く、われ死を畏れず、爾奚する者ぞ、馬なお盤辟再四して行く、同死して馬長号数声してまた死す〉(『大清一統志』一九九)。
プリニウスいわく馬主人を喪えば流涕するあり、ニコメデス王殺された時その馬絶食自滅し、アンチオクス王殺されて敵人王の馬を取り騎りて凱旋せしにその馬瞋りて断崖より身を投げ落し騎った者とともに死んだと。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収