(伝説二4)
『フォークロール・ジョーナル』巻四に、支那人の起原について蒙古人が伝えた珍譚を載す。いわく、貧士あり路上で二人が羊眼大の玉を争うを見、その玉を渡せ、われそれを持ちて走るに、まず追い著いた者玉の持ち主たるべしといい、玉を受け取りて直ちに嚥み下し隠れ去った。それより他邦に之きて一老人の養子となる。この養子唾はくごとに金を吐く、老人その金を国王に呈し、王女を養子に妻さんと願う。
王ともかく本人をとて召し見ると、かの男王の前で金を吐く、王女馬の腹帯もて彼を縛り塩水を呑ませ鞭うつと玉を吐くを、王女拾い嚥みおわる。男は老人方に還り、驢の鞍と※[#「革+巴」、344-9]を造り往きて白樹下に坐す。 彼貧なりし時この樹下に眠り、夢に不思議な呪言を感得しいた。
かくと知らぬ王女は玉を嚥んで懐妊し、処女二十人伴れてこの樹下へ遊びに来り、かの男呪を唱えて王女を驢に化し、鞍と※[#「革+巴」、344-11]を付けて一月間騎り行くと、驢疲れて進む能わず。因って徒歩して一都城に到り、僧となる。跡に残った驢は生の男児を生み、その子孫皆で金銀茶布を有し、毎も富み、その後胤殖えて支那人となったと。
かかる話は蒙古等の民が甚く鮓答を尊ぶから生じたであろう。鮓答は胡語ジャダーの音訳で、今日もアルタイ地方に鮓答師てふ術士あり。能くこの石を用いて天気を制す。この石不断風強く吹く狭き山谷にあり。人能く一切の所有物を棄て始めて手に入れ得、故にこの石を使う者は孤寒素貧かつ無妻という(一九一四年版チャプリカの『西伯利原住人』二〇〇頁)。
突厥や蒙古の軍にしばしば鮓答師が顕用された例は、ユールの『マルコ・ポロの書』一版一巻六一章に出づ。胡元朝の遺民陶宗儀の『輟耕録』四に、往々蒙古人雨を祷るを見るに、支那の方士が旗剣符訣等を用うると異なり、ただ石子数枚を浄水に浸し呪を持て石子を淘玩すと、やや久しくして雨ふる、その石を鮓答といい、諸獣の腹にあれど、牛馬に生ずるのが最も妙だと見ゆ。日本で馬糞石など俗称し、稀に馬糞中に見出す物で予も数個持ち居る。
『松屋筆記』に引ける『蓬日録』に、〈およそ兵事を達するには、急に能く風雨を致し、囲を突きて走り、けだし赭丹を有って身に随く、赭丹は馬腹中に産するところの物、これを用いて念呪すなわち風雨を致す〉と載せた赭丹も、蒙古名シャダーの音訳だ。
『兎園小説』に、死んだ馬が侠客の夢に現われてその屍の埋葬を頼み、礼として骸中の玉を与えた由、馬琴が筆しある。何に致せ天下分け目の大戦さえ鮓答で決せらると信ぜられ、一二〇二年ナイマン部等の大聯合軍が成吉思およびアウン汗と戦う時、アウン汗の子、霧雪を興してこれを破ったもこの石子の神効に由るというほど故、これを手に入れんとて一切の所有物を棄てても十分引き合うべく、非常に高価な物だったらしい。
鮓答また薬として近古まで高価だったは、タヴェルニエーの『印度紀行』巻二で判る。また畜類の糞は古来種々に用達てられた。十九世紀に最早くラッサに入りて高名したウクの説に、蒙古人好く畜の糞を類別して適宜応用を誤らず、羊糞を焼かば高熱を生ずる故冶金に用い、牛糞の火は熱急ならぬ故肉を炙るに使うと、前述驢様の長耳を持ったフリギア王ミダスは貪慾で自分の糞を金に変えたと伝えられ、ローマ帝ヴェスパシャヌスは公事に鉅万を費やすを惜しまなんだが、内帑を殖やすに熱心してその馬の糞を売り、太子チッスの諫めに逢って馬糞売って得た金は悪しく臭うか嗅いで見よと言った。
かく畜の糞から高値な鮓答を得もすれば、糞それ自身が随分金と替えられ得たから、それを大層に訛称して金を糞に出す驢牛等の譚も出来たのだ。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収