(伝説二3)
その鑑識に驚いて予が小沢という人に話し、小沢また岡崎氏に向って受け売りすると、恋愛の実境はそんな言では悉し得ない、すべて少年は縹緻を重んじ中年は意気を尚ぶ、その半老以後に及んではその事疎にして情転た熾んに、日暮れ道遠しの事多し、ただ身分の健否を問うのみと言われた由。この語洵に神に通ずで、人間のみかは畜類について察するも、齢の加わるに随って心情の移り変るかくのごとき例甚だ多し。
その移り変るを上進と見んか堕落と言わんかちょっと分りにくいが、邦俗二十の後家は立ちて、三十の後家は立たぬといい、若くて清貞の聞え高く老後汚名を流せし者諸国の史筆を絶たぬは、皆岡崎氏の説通りの訳に基づくらしく、在英中高名のある学者に語ると、日本にも偉い人がある、今日欧州で婦女の徳行を論ずる者も、大抵その通りの標準に拠って酌量を加えいるが、いまだ岡崎氏ごとく手短く定則的に確言した者あるを聞かぬと感心された。
三十二、三でかく観察力に富みいた岡崎氏が、政治の代りに学問に懸り続けられたなら、一方ならずわが邦の学術を進めたはずだ。かの学者は著書すこぶる多いが居常至って多忙で、予が一々所拠を明らかにして告げた事も多くは予の言として記しある。大戦争始まってより音信ないが、もしその書中に右の岡崎氏の言を予の言のごとく書きあったなら、見る人予は単に氏の言を吹聴したに過ぎぬと知られよ。
屁が済んだから今度は馬の糞の話としよう。糞成金になり得るかも知れぬからしっかり読むべし。『大清一統志』二二二に、湖南の金牛岡は昔赤牛江を渡り糞するを見ると金だったので、蹤跡け行くとここに至って見えず、その地を掘って金を求めた跡が現存すといい、二四〇巻には秦の恵王蜀を伐たんとて石の牛五頭を作り、毎朝金をその後に落し牛が金を便するという、蜀人悦んでこれを乞い迎え入れた、その時作った石牛道、すなわち剣閣道から伐ち入って蜀を滅ぼしたとある。田九郎というもの、三日に一度必ず金を糞ともにする馬とて兄をあざむき、五十金に売りし事『醒睡笑』一に出づ。
欧州には畜類が金の糞した話が多い。例せばクレーンの『伊太利俚譚』に、貧しい児が叔父に小さき驢を貰う、その下に風呂敷さえ拡ぐれば、銭を便して満てる。それを率きて行き暮れて旅亭に宿り驢と同室に臥すを怪しみ亭主が覗くと、銭多く出す様子、因って一分一体異らぬ他の驢をかの児の眠った間に、金の糞する驢と掏り替えた。翌朝出で立ちて、途中で始めて気付き、引き還して亭主を責めたが応ぜず。叔父を訪うて泣き付くと、広げさえすれば飲食思いのままに備わる机懸けをくれる。
それを持ってまた同じ旅亭に宿り、前のごとく掏り替えられ、叔父に泣き付くと、仏の顔も三度と呟きながら、今度は打てと命ずれば他を打ち続け、止めと命ずれば止む杖をくれる。それを携えて例の旅亭に宿る。亭主その杖美しく柄が金作りなるを見、夜その室に入って窃みに掛かるを待ち受けいたかの児小声で打て打てと呼ぶと、杖たちまち跳り出て烈しく亭主を打ち、勢い余って鏡、椅子、硝子窓以下粉砕せざるなく、助けに駈け付けた人々も皆打たれたので、亭主盗み置いた小驢と机懸けを返してようやく免され、かの児は件の三物をもって家に帰り母と安楽に富み暮した、目出たし目出たしとある。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収