(伝説二2)
因って予岡崎君に返事した大要は、マックズーガル説に、人間は訳が判ったからって物を怖れぬに限らぬ。自分は動物園の鉄圏堅くてなかなか猛獣が出で来るべきにあらずと知悉すれど、虎がこっちへ飛び掛りて咆ゆるごとに怖ろしくてわが身の寒きを覚えるを制し得なんだ事ありとあったと記憶する。
それと等しく鬼門の祟りなど凡衆にとって有無ともに確証を認めぬながら、君子は有るを慮り無しを慮らず、用心に越した事なしてふ了簡がほとんど天性となり居るところへ以て、蘇張の弁でその妄を説いたって容易に利く事でなかろう。かつそれ風を移し俗を易えるは社会の上層から始め、下これに倣うてようやく事成る。
しかるにわずか数年前横浜の外字新聞にわが国貴勝の隠れさせたまえる時刻に真仮の二様あったとて、かかる国民に何の史実何の誠意を期待し得べきと手酷く難詰しあったそうで、その訳文を京阪の諸紙で見た。陰陽道で日や時の吉凶を詳しく穿議した古風を沿襲しての事と存ずるが、この世を去るに吉日も凶時もあるものかという外人の理窟ももっともだ。
が上つ方においては例の有るを慮り無しを慮らざる用心から、依然旧慣に循わるるのであろう。その可否のごときは吾輩賤人の議すべきでないが、社会の上層既にかかる因襲を廃せぬに、下層凡俗それ相応に鬼門の忌を墨守するを、吾輩何と雑言したりとて破り撤てしめ得らりょうぞ。
さてついでに申し置くは壮時随分諸邦を歩いた時の事と思し召せ。ある邦の元首大漸の公報に、その詳細を極めんとの用意が過ぎて、下気出る時の様子までも載せあった。昔は帝堯が己に譲位すべしと聞いて潁川に耳を洗うた変物あり、近くは屁を聞いて海に入り、屁を聞かせじと砂に賺し込む頑民あり、さまでになくとも高貴の方の下気など誰一人あるべき事と期待もせねば、聴きたがりもせず。
それを公報に載せて職に尽くせしと誇るは、羊を攘んだ父を訴えた直躬者同然だ。かかる無用の事を聞かせて異種殊俗の民に侮慢の念を生ぜしめ、鼎の軽重を問わるるの緒を啓いた例少なからず。かく言うものの、賺し屁の放り元同然日本における屁の故事を詳らかにせねど、天正十三年千葉新介が小姓に弑せられたは屁を咎めしに由り、風来の書いた物に遊女が放屁を恥じて自殺せんとするを、通人ども堅く口外せぬと誓書を与えて止めたと見れば、大昔から日本人は古ローマ人のごとく屁を寛仮せず、海に入り砂に埋むるまでなくとも、むしろアラビヤ人流に厳しく忌んだらしい。
これすなわち本邦固有の美風だから、吉凶にかかわって日時を転るの旧慣を絶つとも、下気は泄出の様子までも公報する外国風を採るなどの事なきを望むと、かく答えた予の書牘を読んで、誠に万事西洋模倣の今日よいところへ気が付かれたと、昨春田辺へ来られた節
親り挨拶あり。それも決して座成的のものでないと見え、何処とかへ代議士が集った席でも話出て感心しきりだったと、中村啓次郎氏から承った。
三十年ほど前予米国にあって、同類の学生を催し飲酒度なく、これを非難せしとて岡崎氏等を悪口してやまなんだが、氏の寛懐なる、二十一年来この片田舎に魚蝦を友とし居る予を問われたが嬉しさに、覚えずかく長く書いたのだ。その頃故エドウィン・アーノルドが東京に来寓し、種々筆した内に「初め冗談中頃義理よ、今じゃ互いの実と実」てふ都々逸を賞めて訳出した。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収