猴に関する伝説(その27)

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  • (民俗2の6)



     右述西アフリカのバーボー猴に似た記事が『古事記』にあって「かれ、その※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)田毘古さるたひこの神、阿邪訶あざかいませる時にすなどりして、ヒラブ貝にその手をひ合されて海塩うしおおぼれたまひき。かれ、水底に沈み居たまふ時の名をそこドク御魂みたまといひつ。その海水のツブ立つ時の名をツブ立つ御魂といひつ、そのあわさく時の名を泡サク御魂といひき」。本居宣長はこのヒラブ貝を月日貝のように説いたが、さすがに学問を重んじただけあって、なお国々の人に尋ね問わば今も古えの名の残れる処もあるべきなりと言われた。そしてまたタイラギという貝あり、ギはカイのつまりたるにて平ら貝の意にて是にやと疑いを存せられたは当り居る。

    「第10図 紀州新庄村のタチガイ二種」のキャプション付きの図

     田辺附近の新庄村より六十余歳の老婦多年予の方へ塩を売りに来る。 はや大聾だいろうとなったので四、五十年前に聞いた事のみよく話す。由って俚言土俗に関して他所風のまじらぬ古伝を受くるに最も恰好かっこうの人物だ。この婆様が四年前の四月、例により塩をにのうて来た畚(フゴ)の中にかの村名産のタチガイ多く入れあった。

    これは『本草啓蒙』四二にタイラギ、トリガイ(備前、同名あり)、タテガイ(加州)と異名を挙げ、「海中に産す、形蚌のごとくにして大なり、殻薄くして砕けやすく色黒し、挙げて日に映ずればすこしく透いて緑色なり。長さ一尺余、一頭はとがり一頭はようやく広く五、六寸ばかり、摺扇しょうせんを微しく開く状のごとし、肉の中央に一の肉柱あり、色白くして円に、わたり一寸ばかり、大なるものは数寸に至る。横に切って薄片と成さば団扇の形のごとし、故に江戸にてダンセンと呼びしゃほう食味極めて甘美なり。これ江瑶柱なり、ほかにも三柱ありて合せて四柱なれども皆小にして食うに堪えず、故に宋の劉子※(「栩のつくり/軍」、第3水準1-90-33)「食蠣房詩」に江瑶貴一柱といえり、その肉は腥靭せいじんにして食うべからず、※(「魚+二点しんにょう+豕」、第3水準1-94-49)※(「魚+夷」、第3水準1-94-41)ちくい塩辛しおから」に製すればやや食うべし、備前および紀州の人このかい化して鳥となるといい、試みに割って全肉を見れば実に鳥の形あり、唐山にもこの説あり、しかれども実に化するや否やを知らず」とづ。

    『紀伊続風土記』九七には「立介タチカイ一名鳥介、同名多し、玉※(「王+兆」、第4水準2-80-73)(タイラギ)に似て幅狭く長さ七、八寸、冬より春に至りて食用とす、夏月肉ようやく化して鳥となる。形磯ひよどりに似て頭白く尾なし、鳴く声ヒヨヒヨというごとし、牟婁郡曾根荘賀田浦に多し」と見ゆ。

    介が鳥になるてふ話は欧州や支那にもありて(マクス・ミュラーの『言語学講義』一八八二年板、二巻五八六頁、王士※(「示+眞」、第4水準2-82-74)の『香祖筆記』十。〈西施舌海燕の化すところ、久しくしてすなわちまた化して燕と為る〉)、その肉が鳥の形に似るに起る。くだんの老婦が持ち来ったタチガイを見るに二種あり。いずれもピンナ属のもので、ピンナはラテン語、単数で羽、複数の時は翼の義、形が似たので名づく。いずれも海底に直立し、口の下端に近く毛あって石に付くを外国で織って手袋などにする。第十図甲は殻が末広く細条縦横して小刺多し。これを専らタチガイと称し方言ヒランボと呼ぶ。乙は末広ながら甲に比して狭く、その線条あらき上ひびわれ多く刺はなし、その肉煙草の味あり、喫烟家このくらう。方言これをショボシと称う。

    『和漢三才図会』四六に、玉※(「王+兆」、第4水準2-80-73)俗いうタイラギ、またいう烏帽子えぼし貝と出づるを見れば、真のタイラギより小さい故小帽子の意でショボシの名あるか。余の所見を以てすれば、『紀伊続風土記』にいえるごとく、タチガイは二種ともタイラギと別物で殻の色黒からず淡黝黄だが、いずれも形はよく似居る。新庄でいうヒランボすなわち真のタチガイが『古事記』に見えた猿田彦を挟んで溺死せしめた介で、ヒランボはその文にいわゆるヒラブ貝なる名の今に残れるものたるや疑いを容れず。宣長がヒラブ貝はもしくはタイラギかと推せしはあたりおり、なお国々の人に尋ねたら今も古名の残った所もあるべしというたが、果して紀州西牟婁郡新庄村に残り居るのだ。

    猴の話と縁が遠いが、『古事記』は世界に多からぬ古典で、その一句一語も明らめずに過すは日本人の面目を汚す理窟故、猿田彦に因んでヒラブ貝の何物たるを弁じ置く。さて猿田彦が指を介に挟まれ苦しむうち潮さし来り、溺れて底に沈みし時の名を底ドクすなわち底に く御魂といい、ツブ立つ時すなわち俗にヅブヅブグチャグチャなどいうごとく水がヅブヅブと鳴った時の名をヅブたつ御魂、泡の起る時の名を泡さく御魂というたとあるは、死にざまに魂が分解してそれぞれ執念が留まったとしたのだ(『古事記伝』巻十六参照)。

    異常の時に際し全く別人のごとき念を起すこと、酸素が重なってオゾーンとなり、酸素に異なる特性を具うるごときを別に御魂と唱えておそれたので、ある多島海島民は人に二魂ありとし、西アフリカ人は毎人四魂ありと信じ、また種々雑多の魂ありとしこれを分別すること難く、アルタイ人は人ごとに数魂ありとし、チュクチー人は人体諸部各別にその魂ありとす(一八七二年板ワイツおよびゲルラント『未開民史』巻六、頁三一二、一九〇一年板キングスレイ『西アフリカ研究』一七〇頁、一九〇六年板デンネット『黒人の心裏』七九頁、一九一四年板チャプリカ『西伯利シベリア初住民』二八二および二六〇頁)。

    支那でも『抱朴子』に、分形すればすなわち自らその身三魂七はくなるを見る。『酉陽雑俎ゆうようざっそ』に人身三万六千神その処に随ってこれに居るなどあるをかんがえ合すべし。介が動物を挟みくるしめた記事は例の『戦国策』の鷸蚌いつぼうの故事もっとも顕われ、其碩きせきの『国姓爺こくせんや明朝太平記』二の一章に、旅人が乗馬して海人あまに赤貝を買い取って見る拍子にその貝馬の下顎したあごい付き大いに困らす。下人祝してお前は長崎丸山の出島屋万六とて女郎屋の一番名高いくつわ、その轡へ新しい上赤貝の女郎が思い付いて招かぬに独り食い付くと申す前表ぜんぴょうと悦ばす所あるはこれに拠って作ったのだ。

    その他『甲子夜話』一七に、平戸ひらどの海浜で猴がアワビを採るとて手を締められ岩に挟まり動く能わず、作事奉行さくじぶぎょう川上某を招く故行って離しやると、両手を地に付け平伏して去ったとあるが、礼に何も持って来たとないところがかえって事実譚らしく、九世紀に支那に渡ったペルシャ人アブ・ザイド・アル・ハッサンの『紀行』(レイノー仏訳、一八四五年板一五〇頁)にも、狐が介の開けるを見、その肉を食わんとくちばしを突っ込んできびしく締められ、顛倒して悶死した処へ往き会わせたアラビア人が介の口に何か光るを見、破って最高価の真珠を獲たと記す。

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    「猴に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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