猴に関する伝説(その26)

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猴に関する伝説インデックス

  • 概言1
  • 概言2
  • 性質
  • 民俗1
  • 民俗2

  • (民俗2の5)



     似た例を挙げると昔いと久しく大開化に誇ったエジプト国でも数種の猴を尊んだ。その内もっとも崇められたはシノセファルス・ハマドリアスてふ狗頭猴で、古エジプト神誌中すこぶる顕著なる地位を占めた。昨今エジプトに産しないでアラビアとアビシニアにみ、時として大群を成す。身長四フィートばかり、その顔至って狗に似て長く、両肩に立て髪がない。この猴文字の神トットの使者たるのみならず、時としてトット自身もこの猴の形を現じた(第七図)。トットは通常人身朱鷺とき頭で現じたのだ。エジプト人この猴を極めて裁判にくわしとした。

    第八図は野干(ジャッカル)頭の神アヌビスと鷹頭の死人の守護神が、死人のごうはかはかりの上に狗頭猴が坐し、法律の印したる鳥羽と死人の心臓が同じ重さなるを確かめてこれを親分のトットに報ずるところだ。さて衆神の書記たるトットがこれを諸神に告げるのだ。また第九図のごとくいのこかたどった悪人の魂を舟に載せて、もう一度苦労すべく娑婆しゃばへ送還する画もある。またこの猴を月神の使者としその社に飼った。その屍は丁寧にミイラに仕上げて特設の猴墓所に葬った。

    けだしバッジの『埃及エジプト人の諸神』一巻二一頁に言えるごとく、狗頭猴のこの種は至って怜悧で、今も土人はこれを諸生物中最も智慧あり、その狡黠こうかつを遥かに人間を駕するものとして敬重す。古エジプト人これを飼い教えて無花果いちじくを集めしめたが、今はカイロの町々で太鼓に合わせて踊らされ、少しく間違えば用捨なくむちうたるるは、かつて文字の神の権化ごんげとして崇拝されたに比較して猴も今昔の歎に堪えぬじゃろとウィルキンソンは言うた(『古埃及人の習俗)』巻三)。

    またいわく、アビシニアの南部では今もこの猴に種々有用な芸道を仕込む。たとえば、よるしょくって遊宴中、腰掛けをつらねた上に数猴一列となって各の手に炬火かがりびを捧げ、客の去るまで身動きもせず、けだし盗人の昼寝で当て込みの存するあり、事終るの後褒美ほうびに残食を頂戴して舌を打つ覚悟なんだ。ただし時に懈怠けたい千万な猴が火を落したり、甚だしきは余念なく歓娯最中の客連の真中へ炬火を投げ込む事なきにあらず、その時は強く笞うちまた食を与えずして懲らす故閉口して勤務するようになるんだと。ちょっとうそのようだがウィルキンソンほどの大権威家がよい加減な言を吐く気遣いなし。

    明治十年頃まで大流行だった西国合信氏の『博物新編』に、猴は人が焚火した跡へ集り来って身を あたたむれど、火が消えればそのまま去り、すぐそばにある木を添える事を知らぬとあったを今に信ずる人も多いが、それは世間知らずの蒙昧な猴どもで、既にパーキンスから、今またウィルキンソンから引いた記述を見ると、少なくとも狗頭猴中もっとも智慧あって古エジプト人に文字の神アヌビスの使者と崇められたいわゆるアヌビスバブーンは、人を見真似にかまどに火を絶やさず炬火かがりびを扱う位の役に立つらしい。

    ダンテの友が猫に教えて夜食中蝋燭ろうそくを捧げ侍坐せしむるに、生きた燭台となりて神妙に勤めた。因ってダンテに示して「教えて見よ、蝋燭立てぬ猫もなし、心からこそ身はいやしけれ」と誇るをダンテ心にくく思い、一夕鼠を隠し持ち行きて食卓上に放つと、猫たちまち燭を投げ棄て、鼠を追い廻し、杯盤狼藉はいばんろうぜきと来たので、教育の方は持って生まれた根性を制し得ぬと知れと言うて帰ったと伝う。海狗オットセイは四肢がひれ状となり陸を歩むにやすからぬものだが、それすらロンドンの観場で鉄砲を放つのがあった。して見ると教えさえすれば猴も秉燭へいしょくはおろか中らずといえども遠からぬほどに発銃くらいはするなるべし。

    ただし『五雑俎』に明の名将威継光が数百の猴に鉄砲を打たせて倭寇わこうほろぼしたとか、三輪環君の『伝説の朝鮮』一七六頁が、楊鎬が猿の騎兵で日本勢を全敗せしめたなど見ゆるは全くの小説だ。それから前述のごとく、ベッチグリウ博士が、猴類は人に実用された事少しもなく、いまだかつて木をき水を汲むなどその開進に必要な何らの役目を務めず、ただ時々飼われて娯楽の具に備わるのみ、それすら本性不実で悪戯を好み、しばしば人に咬み付く故十分愛翫するにえずとは争われぬが、パーキンスが述べたごとく、飼い主の糊口ここうのために舞い踊りその留守中に煮焚きの世話をし、ウィルキンソンが言った通り人につかえて種々有用な役を勤むる猴もなきにあらず。

    したがって十七世紀に仏人バーボーが西アフリカのシエラ・レオナで目撃した大猴バリの幼児を土人が捕え、まず直立して歩むよう教え、追い追い穀をく事と、瓢に水を汲んで頭に載せ運び、またくしを廻して肉をあぶる事を教えたというも事実であろう(一七四五年板、アストレイの『新編航記紀行全集』二巻三一四頁)。この猴甚だ牡蠣かきを好み、引き潮に磯におもむき、牡蠣が炎天にさらされて殻を開いた口へ小石を打ち込み肉を取り食う。たまたま小石がすべれて猴手をかいはさまれ大躁おおさわぎのところを黒人に捕え食わる。欧人もこれを食って美味といったが、バーボーは食う気がせなんだという。

    前にも述べた通り猴は形体表情人を去る事間髪をれず、したがってこれを殺しこれを食うは人情にそむくの感あり。楚人猴をるあり、その隣人を召すに以て狗羹こうこうしてこれをうましとす。後その猴たりしと聞き皆地に拠ってこれを吐き、ことごとくその食をしゃす、こはまだ始めより味を知らざるものなり(『淮南鴻烈解』修務訓)。

    近年死んだヘッケルがエナ大学の蔵中になき猴種一疋を打ち取った時、英人ミラー大佐、たとい科学のためなりともその罪人を謀殺せるに当ると言うた(一九〇六年板コンウェイの『東方諸賢巡礼記』三一七頁)。コンウェイがビナレスの猴堂にもうで多くの猴を供養したところに猴どもややもすれば自重して人間を軽んずる気質あるよう記した。これ猴のえらい点また人からいえば欠点で、心底から人に帰服せぬもの故、ややもすれば不誠実の行い多く、犬馬ほど人間社会の開進に必要な役目を勤めなんだのだ。『大集経』に〈慧炬えこ菩薩猴の身を現ず〉、インドでも猴に炬を持たせたものか。

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    「猴に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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