(民俗2の1)
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ラーマーヤナの譚をわが国で最も早く載せたは『宝物集』で治承の頃平康頼が筆すという。その略にいわく、昔釈迦如来天竺の大国の王と生まれて坐しし時、隣国舅氏国飢渇してほとんど餓死に及べり。舅氏国の人民相議して我らいたずらに死なんより、隣の大国に向うて五穀を奪い取って命を活くべし、一日といえども存命せん事、庶幾うところなりとて、すでに、軍、立つを大国に聞き付けて万が一の勢なるが故に軽しめ嘲りて、手捕にせんとするを聞きて、大臣公卿に宣わく、合戦の時多くの人死せんとす。願わくば軍を止むべしと制したまいしかば、宣旨と申しながらこの事こそ力及び侍らね[#「侍らね」は底本では「待らね」]、隣国進み襲うを闘わずば存命すべからずと申し侍りければ、大王窃かに后を呼んで、我れ国王として合戦を好まば多くの人死せんとす、我れ深山に籠りて仏法を修行すべし、汝は如何思いたもうと宣いければ、后今更に如何離れ奉らんとのたまいければ、ついに大王に具して深山に籠りたまいぬ。
大国の軍、国王の失せたもう事に驚きて戦う事なくして小国に順いぬ。大王深山にして嶺の木の子を拾い、沢の岩菜を摘んで行いたまいけるほどに、一人の梵士出で来りて御伽仕るべしとて仕え奉る。大王嶺の木の子を拾いに坐したる間に、この梵士后を盗んで失せぬ。
大王還って見たもうに后の坐せざりければ山深く尋ね入りたもう。道に大なる鳥あり、二つの羽折って既に死門に入る。大鳥大王に申さく、日来附き奉りたりつる梵士后を盗み奉りて逃れ侍りつるを、大王還りたもうまでと思いて防ぎ侍りつれども、梵士竜王の姿を現じてこの羽を蹴折りたりといいてついに死門に入りぬ。大王哀れと思して高嶺に掘り埋めて、梵士は竜王にてありけるという事を知って、南方に向って坐しましけるほどに、深山の中に無量百千万の猿集りて罵りける処へ坐しぬ。
猿猴大王を見付けて悦んでいわく、我ら年来領する山を隣国より討ち取らんとするなり。明日午の時に軍定むべし、大王を以て大将とすべしという。大王思いがけぬところへ来りて悔しく思し召しながら、承りぬとて居たまいたりければ、弓矢をもて大王に奉れり。いうがごとく次の日の午の時ばかりに、池に藻靡きて数万の兵襲い来る。大王猿猴の勧めに依って弓を引いて敵に向いたもうに、弓勢人に勝れて臂背中に廻る。
敵、大王の弓勢を見て箭を放たざる先に遁れぬ。猿猴ら大いに悦び、この喜びにはいかなる事をか成さんずるといいければ、大王告げて曰く、我れ年来の后を竜王に盗み取られたり。故に竜宮城に向って南方へ行くなり、と宣いければ、猿猴ら申さく、我らが存命偏に大王の力なり、いかでか、その恩を思い知らざらん、速やかに送り奉るべしとて、数万の猿猴大王に随って往き、南海の辺に到りければ、いたずらに日月を送るほどに、梵天帝釈大王の殺生を恐れて国を捨て、猿猴の恩を知って南海に向う事を憐れと思して、小猿に変じて数万の猿の中に雑りていうよう、かくていつとなく竜宮を守るといえども叶うべきにあらず、猿一つして板一枚草一把を儲けて橋に渡し、筏に組みて竜宮城へ渡らんといいければ、小猿の僉議に任せて、各板一枚草一把を構えて橋に渡し、筏に組みて自然に竜宮城に至れば、竜王、怒りをなして大なる声を起して光を放つほどに、猿猴霧に酔い雪に怖れて顛れ伏す。
小猿雪山に登りて大薬王樹という樹の枝を伐って、帰り来りて酔い臥したる猿どもを撫ずるに、たちまち酔醒め心猛くなって竜を責む。竜王光を放って鬩ぎけるを大王矢を射出す。竜王大王の矢に中りて猿猴の中に落ちぬ。小竜ら戦わずして遁れ去りぬ。猿猴ら竜宮に責め入って后を取り返し七宝を奪い取って本の深山に帰る。
さてかの舅氏国の王失せにければ、大国、小国、臣下等この王を忍びて迎え取りて、二箇国の王としてあり、細かには『六波羅蜜経』にぞ申しためると。
熊楠いまだ『六波羅蜜経』を見及ばぬが、三国呉の時支那へ来た天竺三蔵法師康僧会が訳した『六度集経』五にラーマーヤナ譚あるを見出し、『考古学雑誌』四巻十二号へ載せた。当時の俗支那語で書いたらしくてちょっと読みにくい。大意は『宝物集』と同様ながら、板や草を橋筏とする代りに石を負うて海を杜ぎ猴軍が渡ったとあり。私陀妃の終りも上に引いた一伝にほぼ同じくてやや違う。
王敵を平らげ帰って妃に向って曰く、婦、夫とするところを離れ、隻行一宿するも、衆疑望あり、豈いわんや旬朔をや、爾汝の家に還らば事古儀に合わんと、妃曰くわれ穢虫の窟にありといえども蓮の淤泥に居るがごとしわれ言信あれば地それ折けんと、言おわりて地裂く、曰くわが信現ぜりと、王曰く、善哉、それ貞潔は沙門の行と、これより、国民、王の仁と妃の貞に化せられたと述べ居る。
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