(民俗1の5)
さて羅摩王久しぶりで恋女房を難苦中より救い出し、伴うて帰国した後、一夜微服して城内を歩くと、ある洗濯師の家で夫妻詈り合う。亭主妻に向いわれは一度でも他男に穢された妻を家に置かぬ、薄のろい羅摩王と大違いだぞと言うた。その声霹靂のごとく羅摩の胸に答え、急ぎ王宮に還って太く怒り悲しみ、直ちに弟ラクシュマナを召し私陀を林中で殺さしむ。
ラクシュマナ、その嫂の懐胎して臨月なるを憐み、左思右考するに、その林に切れば血色の汁を出す樹あり、因ってその汁を箭に塗り、私陀を林中に棄て、帰って血塗りの箭を兄王に示し、既に嫂を射殺したと告げた。私陀林中にさまよい声を放って泣く時、その近処に隠棲せるヴァルミキ仙人来って仔細を聞き、大いにその不幸に同情し、慰めてその庵へ安置し介抱すると、数日にして二子を生み、仙人これを自分の子のごとく愛育した、ほどへて羅摩ヤグナムの大牲を行わんとす。
これは『詩経』に牡既に備うとあり『史記』に秦襄公駒を以て白帝を祀るとあって、支那で古く馬を牲にしたごとくインドでも委陀教全盛の昔、王者の大礼に馬を牲にしたのだ。今羅摩が牲にせんとせる馬、脱れて私陀の二児の住所へ来たので、二児甫めて五歳ながら勇力絶倫故、その馬を捉え留めた。盗人を捕えて見れば我子なりと知らぬ身の羅摩、すなわちハヌマンを遣わし大軍を率いて征伐せしめたが、二児に手甚く破られて逃れ還る。ここにおいて羅摩自ら総兵に将として、往き伐ち、また敗れて士卒鏖殺と来た。処へ二児の養育者ヴァルミキ仙来って、惻隠の情に堪えず、呪言を唱えてことごとく蘇生せしむ。
羅摩王、宮に還って馬牲をやり直さんとし、隣国諸王と国内高徳の諸梵士を招待す。梵士らこの大礼を無事に遂げんには必ず私陀を喚べと勧め、羅摩、様々と異議したが、ついにこれを召還しよく扱うたので大牲全く済む。羅摩化の皮を現わし、また妻の不貞を疑い、再び林中に追いやらんとするを諸王宥め止む。
羅摩なお不承知で、私陀永く楞伽に拘留された間一度も敵王に穢された事なくば、須く火に誓うて潔白を証すべしと言い張る。私陀固くその身になきを知るから、進んで身を火中に投ぜしも焼けず。他にも種々その潔白を証したが、なお全く夫王の嫉妬を除く能わず、私陀は「熱い目を私陀のも私陀で無駄になり」で、今は絶望の余り自分が生まれ出た大地に向い、わが節操かつて汚れし事なくんば、汝、我が足下に開いてわれを呑めと願うに応じ、土たちまち裂けて私陀を呑みおわった。羅摩これを見て大いに悔い、二子にその国を頒ち、恒河の辺に隠栖修道して死んだというのが一伝で、他に色々と異伝がある。
この譚に対して欧人間にも非難少なからず、われわれ日本人から攷えても如何な儀も多いが、かかる事はむやみに自我に執して他を排すべきにあらず。たとえば欧州やインドの人は蟾蜍(ヒキガエル)を醜かつ大毒なる物として酷く嫌う。しかるに吾輩を始め日本人中にこれを愛する者少なからず。アメリカインデアン人もまたしかり。モニエル・ウィリヤムスの『印度教篇』に、蛇は大抵の民族が甚く忌むものながら、インド人はほとんど持って生まれたように心底からこれを敬愛称美するとあった。
予かつて南ケンシントン美術館に傭われいし時、インドの美術品に貴婦が、遊逸談笑するに両肱を挙げて、腋窩を露わすところ多きを見て、インドの貴紳に向い、甚だ不体裁な事と語ると、その人わが見るところを以てすればこれほど端正な相好なしと至って真面目に答え、更に館に多く集めた日本の絵に、美女が少しく脛を露わせるを指ざし、非難の色を示した。
されば太宰春台が『通鑑綱目』全篇を通じて朱子の気に叶うた人は一人もないといったごとく、第一儒者が道徳論の振り出しと定めた『春秋』や、『左伝』も、君父を弑したとか、兄妹密通したの、人の妻を奪うたのという事のみ多く、わが邦で賢母の模範のようにいう曾我の老母も、若い時京の人に相馴れて京の小次郎を生んだとあるから私通でもしたらしく、袈裟御前が夫の身代りに死んだは潔けれど、死する事の一日後れてその身を盛遠に汚されたる事千載の遺恨との評がある。常磐が三子助命のために忍んで夫の仇に身を任せたは美談か知らぬが、寵弛んで更に他の男に嫁し、子供多く設けたは愛憎が尽きる(『曾我物語』四の九、『源平盛衰記』一九、『昔語質屋庫』五の一一、『平治物語』牛若奥州下向の条)。
しかしながらこれら諸女の譚は、道義に立脚した全くの戯作でなく、それぞれかつて実在した事蹟に拠って敷衍したものなれば、要は時に臨んで人を感ぜしめた一言一行を称揚したまでで、各生涯を通じて完全無瑕と保険付きでない。女権が極めて軽かった古代には、気が付きいても心に任せぬ事多く、何ともならぬ遭際のみ多かったのだ。
いわんや風土習慣ことごとく異なったインドで、しかも西暦紀元前九百五十年より八十六万七千百二年の間にあったという遠い昔のラーマーヤナ事件を、今日他国人どもがかれこれ評するは野暮の至りだが、このような者を宗旨の経王として感涙を催すインド人も迂闊の至り。それを笑いながら、歴史専門家でなければ記憶せぬ善光寺大地震の頃生まれたカール・マルクスを新説として珍重がるも、阿呆の骨頂と岩猿を絵図と猴話に因んで洒落て置く。
(大正九年十一月、『太陽』二六ノ一三)
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