(民俗2の7)
本居宣長は田毘古神の名をに似たる故とせんは本末違うべし。獣のはこの神の形に似たる故の名なるべしと説いた(『古事記伝』巻十五)。これは「いやしけど云々、竜の類いも神の片端と詠みながら、依然神徳高き大神をいかんぞ禽獣とすべけんや」と言った『俗説贅弁』同然の見を脱せず、田毘古がに似たのでなくが田毘古に似たのだとは、『唐書』に、張昌宗姿貌を以て武后に幸せられた時、佞人楊再思が追従して、人は六郎の貌蓮花に似たりと言うが、正に蓮花が六郎に似たるのみといったとあるに似た牽強じゃ。
既に以て『日本書紀』に、天孫降下の間先駆者還って白さく、一神あり天の八衢におり、その鼻長さ七咫、背長さ七尺余(まさに七尋と言うべし)、かつ口尻明耀、眼八咫の鏡のごとくにして※[#「赤+色」、109-15]然、赤酸醤に似たりとありて、全く老雄猴の形容だ。宣長これを註して「さての形のこの神に似たるを以て思うに、鼻の長きもに似たり、また背長七尺余とあるも俗に人の長立ちを背といわばただおよそその長立ちの事にもあるべけれど、もしその義ならばただに長とのみこそいうべきに、背をしもいえるは、これものごとく這い居ます形についてその背の長さをいうにてもあるべし、神には様々あるめれば這い居たもうとせんも怪しむべきにあらず、もし尋常の人のごとく立ちて坐さんには、尻のてり耀くというも似つかわしからぬをや」と言ったはもっともだ。それに介に手を挟まれて困しむ内、潮に溺れ命を失うたのも猿田彦は老猴を神としたに相違ない証拠だ。
熊野などで番ザルと唱え、猴群が食を探る最中一つまた三、四の老猴が番していて怪しき事あれば急に叫んで警報する事、前にパーキンスから引いたアビシニアの狗頭猴に同じ。支那人は善く候するゆえ猴というと説いた。そのごとく猴の酋長が四通八達の道の衢すなわち辻にありて群猴が田畠を荒すを番守したのでこれを衢の神とし、従って道路や旅行の神とし、旅行に盗難は付き物なる上猴の盗み上手な事前述通り驚くに堪えた者多く、ジュボアはインド人が猴を神視する一つの理由はその盗を能くするにありと言ったくらい故、これを盗みの神とし盗みに縁ある足留めの神ともしたのだ。
それから猴の話に必ず引かるる例の『今昔物語』巻の二十六、飛騨国猿神生贄を止むる語第八に、猴神に痩せた生贄を供うれば、神怒りて作物も吉からず、人も病み郷も静かならず、因って生贄に供うべき人に何度ともなく物多く食わせ太らする習俗を載す。凶年に病人多く世間騒擾するはもちろんだが、この文に拠ればその頃飛騨で猴神を田畑の神としたのだ。他処は知らず今も紀州に猴神の社若干あり、祭日に百姓ども五、六里も歩んで詣ずる事少なからぬ。さるまさると『靭猿』の狂言に言えるごとく、作物蕃殖を猴の名に寄せて祝い祈るという。
猴が作物を荒す事甚だしき例は前にも載せたが、なおここに一、二を挙げんに、『酉陽雑俎』四に〈婆弥爛国西に山あり、上に猿多し、猿形絶だ長大、常に田を暴らす、年に二、三十万あり、国中春起ちて以後、甲兵を屯集し猿と戦う、歳に数万殺すといえども、その巣穴を尽くす能わず〉。アストレイの『新編航記紀行全集』二所収、一六九八年ブルユウの『第二回サナガ河航上記』に、西アフリカのエンギアンバてふ処に猴夥しく畑を甚だしく損ずる上、隙さえあれば人家に入り自分が食い得る以上に多く耗す故、住民断えず猴と戦争す、欧人たまたま奇物として猴を買うを見て訳が分らず、鼠を持ち来ってこれも猴と同じくらい食物を荒すから同価で買い上げてくれと言うた由。
熊野の五村てふ処の人いわく、猴が大根畑へ付くと何ともならず、引き抜いて根を食いおわって丁寧に根首を本処へ生け込み置く故一向気付かず、世話焼くうち萎れ始めてようやく気が付く事ありと。されば最初猴を怕るる余りこれに食を供してなるべく田畑を荒さぬよう祈ったのを、後には田畑を守り作物を豊穣にする神としたので、前に載せた越前の刀根てふ処で、今に猴神に室女を牲した遺式を行いながら毎年田畑のために猴狩りを催すは、崇めるのか悪むのか辻褄の別らぬようだが、昔猴を怕れ敬うた事も分り、年々殺獲する猴の弔いに室女を捧げてその霊を慰める義理立てにも当るようだ。盗賊禦ぎに許されて設けた僧兵が、鴨川の水、双六の賽ほど法皇を悩ませたり、貿易のために立てた商会がインドを英国へ取ってしまう大機関となったり、とかく世間の事物は創立当時とその意味が変る物と見える。
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