山神オコゼ魚を好むと云う事(現代語訳1)

山神オコゼ魚を好むと云う事(現代語訳)

  • 1 オコゼ
  • 2 山の神
  • 3 オコゼに恋した山の神
  • 4 山の神とオコゼ

  • オコゼ

     

    オコゼ
    okoze / yajico

     滝沢解の『玄同放言』巻三で、国史に見えている、物部尾輿(おこし)大連、蘇我臣興志(おこし)、尾張宿禰乎己志(おこし)、大神朝臣興志(おこし)、凡連男事志(おこし)などの名は、すべてオコシ魚の仮字である、と言っている。『和漢三才図会』巻四八に、この魚、和名乎古之、俗に乎古世という、と見える。惟うに、古えオコゼを神霊の物とし、それにより子に名付ける風習が行なわれたのか、今も舟師は山神に風を禱るのにこれを捧げる。

    紀州西牟婁郡広見川と、東牟婁郡土小屋とはオコゼをもって山神を祭り、大利を得た人の譚を伝える。はなはだ相似ているので、そのひとつだけを述べるが、むかし人がいて、十津川の奥白谷(おくしらたに)の深林で、材木十万を伐ったが、水が乏しくて筏を出すことができなかった。よって川下にある土小屋の神社に鳥居(現存)を献じ、生きているオコゼを捧げ祈ったところ、翌朝水が多く出てその鳥居を浸し、件の谷よりここまで、筏が陸続して下り、多くの細民が生利を得た。その人がこれを見て大いに歓び、径8寸ある南天の大木に乗り、流れに任せてはるばると行った、と。

     『東京人類学会雑誌』288号228頁に、山中氏が柳田氏の記を引いているを見ると、日向の一村では、今もオコゼを霊ありとし、白紙一枚に包み、祝していわく、オコゼ殿、オコゼ殿、近くわれに1頭の猪を獲させくださったなら、紙を解き開いて、世の明りを見せ参らせよう、と。さて幸いに1頭の猪を獲た時は、また前のように言っ て、幾重にも包み置き、毎度オコゼを欺いて、山幸を求める風習が存すという。

    予が紀州日高郡丹生川の猟師に聞くところは、異なっていて、その辺の民は、 オコゼを神異の物としてこれに山幸を祈ることなく、全くオコゼを餌として、山神を欺き、獲物を求めるのだ。その話に、山神、常日頃オコゼを見たいと望む念がはなはだ切である。よって猟師がこれを紙に包んで懐中し、速やかにわれに一獣を与えよ、必ずオコゼを見せ参らせせようと祈誓し、さて志す獣を獲る時、わずかに魚の尾、また首など、一部分を露わし示す。このようにすれば、山神は必ずその全体を見ようと、熱望のあまり、幾度誓い、幾度欺かれても、狩の利を与えることは絶えない、と。

      上述の日向の村民がオコゼを紙に包み、もし獲物を与えくれれば、世の明りを見せようと祈り、獲物があった後も紙を開かず、毎度誓言し、毎度違約するのは、不断闇中に霊物を倦苦せしめ、かつこれを欺き通すものである。『淵鑑類函』巻四四九、「『倦遊雑録』にいわく、煕寧(きねい)中、京師久しく日照りが続いた。古えの法令を按ずるに、坊巷にて賓をもって水を貯え、柳枝を挿し、蜥蜴を浮かべて、子供を呼んでいわく、蜥蜴よ蜥蜴、雲を興し霧を吐き、雨を激しく降らせば、汝を放って帰り去らさせよう、と。(下略)」。また『酉陽雑俎』巻二に、蛇医(いもり)を水甕中に密封し、前後に席を設け、香を焼き、十余人の子供に、小青竹を執らせ、昼夜甕を撃ち続けさせると、雨が大いに降った、とある。

    これまた霊物を疲れさせ苦しませて雨を祈ったのだ。しごくけしからぬことのようだが、すべて蒙昧の民のみならず、開明をもって誇っているキリスト教国にも、近世まで、鬼神を欺弄し、はなはだしきは脅迫して、利運を求めし例少なからず。仏国サン・クルーの橋の工人はこの橋を仕上げることができず、渡り初めの者の命を与えようと約束して、魔に頼んで竣功し、さて最初に1匹の猫を放ち渡したところ、魔は不満十分ながら、これを収め去ったと伝え(Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’tom. ii, p. 446, Paris, 1821)、16世紀ごろまで、ナヴァル王国の諸市に、久しく日照りが続くごとに、奇妙な雨乞いの儀式があった。河岸へペテロ尊者の像を担ぎ出し、民衆が同音に、われわれを助けよと三回呼び、何の返事もなければ河の水に浸せと罵るようになり、僧がこれを制止し、ペテロは必ず雨を与えるはずだと保証する。このようにした後、24時間以内に必ず雨が降ると言った(Ibid., p. 434) 。

    支那でも、『博物志』巻八に、「雨を止める祝にいわく、天は五穀を育てて、もって人民を養う。今、天雨降ること止まず、もって五穀を損なう、 いかに、いかに、と。霊にして幸せざれば、牲を殺してもって神霊をまつる。雨すなわち止まざれば、鼓を鳴らしてこれを攻め、朱緑の縄をめぐらしてこれを脅かす」と載せている。タイラーの『プリミチヴ・カルチェル篇』第二板二巻一四章に、このような例が多く見え、幸運を祈るといって、神霊の像を縛り脅かすさえある世の中に、オコゼや山神を欺いて、獲物を求める邦民の迷信は、比較的軽少であるということができる。

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    「山神オコゼ魚を好むと云う事」は『南方熊楠全集 第2巻』(平凡社)に所収。

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