(伝説一8)
本邦で馬に関する伝説の最広く分布しいる一つは白米城の話であろう。『郷土研究』巻四と『日本及日本人』去る春季拡大号へ出した拙文に大概説き置いたから、なるべく重出を省いて約やかに述べよう。建武中、飛騨の牛丸摂津守の居城敵兵に水の手を切られ苦しんだ時、白米で馬を洗い水多きように見せて敵を欺き囲を解いて去らしめた。
また応永二十二年、北畠満雅阿射賀城に拠りしを足利方の大将土岐持益囲んで水の手を留めた節も、満雅計りて白米を馬に掛けて沢山な水で洗うと見せ敵を欺き果せた。因って右の二城とも白米城と俗称す(『斐太後風土記』十一、『三国地誌』三九)。而してこの通りの口碑を持つ古城跡が諸国に多くある。
土佐の寺石正路君に教えられて『常山紀談』を見ると、柴田勝家居城の水の手を佐々木勢に断たれた時、佐々木平井甚助を城に入れてその容易を観せしめた。平井勝家に会うて手水を請うに、缸に水満ちて小姓二人舁ぎ出し、平井洗手済んで残れる水を小姓庭へ棄てたので平井還って城内水多しと告げ、一同疑惑するところへ勝家撃ち出で勝軍したと記す。城守には水が一番大切故、ない水をあるように見せる詐略は大いに研究されたるべくしたがって望遠鏡等なき世には白米で馬洗うて騙された実例も多かったろう。
上に挙げた二雑誌の拙文には書かなんだが、『大清一統志』九七に、山東省の米山は相伝う斉桓公ここに土を積んで虚糧と為し、敵を紿いたとあるを見て似た話と思い居る内、同書三〇六に雲南の尋甸州の西なる米花洗馬山は、往時土人拠り守るを攻めた漢兵が城内水なしと知った。土人すなわち米花もて馬を洗う。漢兵さては水ありと疑うて敢えて逼らなんだと書けるを見出し、支那にも白米城の話があると確知し得た。
これに似た事は、一夜中に紙を貼り詰めて営の白壁の速成を粧い、敵を驚かす謀計で、秀吉公は、美濃攻めにも小田原陣にもそうした由。しかるに『岐蘇考』に天正十二年山村良勝妻籠に城守りした時、郷民徳川勢に通じて水の手を塞ぎけるに、良勝白米もて馬を洗わせ、一夜中に紙で城壁を貼りて敵を欺いたと見るは一時に妙計二つを用い中てたのだ。
支那でも宋の滕元発、一夕に席屋二千五百間を立てた話ありて、紙を白壁と見せたに酷似す。真田信仍が天王寺口で歩兵の槍で以て伊達の騎馬で鉄砲に勝ちたるを未曾有の事と持て囃すが、似た事もあって、南チリへ侵入したスペイン最上の将士を撃退して、二百年間独立を全うしたアウカインジアンは、同じく短兵もて西人の騎馬鉄砲に克ちしを敵も歌に作って称讃した。これら似た話があるから、皆嘘また一つの他は嘘というように説く人もあるが、食い逃げの妙計、娼妓の手管、銀行員の遣い込みから、勲八の手柄談、何度新紙で読んでも大抵似た事ばかりで、例の多いがかえってその事実たるを証明する。
支那の馬譚で最も名高きは、『淮南子』に出た人間万事かくの通りてふ塞翁の馬物語であろう。これは支那特有と見えて、インドを初め諸他の国々に同似の譚あるを聞かぬ。また前年高木敏雄君から次の話が日本のほかにもありやと尋ねられ、四年間調べたが似たものもないようだから多分本邦特有でがなあろう。
天文中書いたてふ『奇異雑談』に出た話で大略は、一婦人従者と旅するに
駄賃馬に乗る。馬の口附来る事遅きを詰れば馬に任せて往かれよという故、馬の往くままに進行すると、川の面六、七間なるに大木を両つに割って橋とす。その木の本広さ三就ばかり末は至って細し。この橋高さ一丈余、下は岩石多く聳えて流水深く、徒で渡るも眩うべし。
馬この橋上を進むこと一間余にして留まる時、従者橋の細きを見て驚き、後れ来る口附を招きて、馬に任せて行けといったからこの災難が起ったと怒りの余り斬らんとす。他の従者これを留め、この里に住む八十余の翁に就いて謀を問う。
さればとて新しき青草を竿の先に縛り付け、馬の後足の間より足に触れぬよう前足の間へ挿し入れば、馬知りて草を食む。一口食いて草を後へ二、三寸引き置かば馬もそれだけ後へ踏み戻してまた一口食む。また二、三寸引きて草を置くとまた踏み戻して食む。その草尽くる時その竿を収め、今一つの竿に草を附けてやらばまた踏み戻して食む。
幾度もこうしてついに土上に戻る馬の口を取りて引き返し、衆
大いに悦び老人を賞賜したてふ事じゃ。予の現住地田辺町と同郡中ながら、予など二日歩いてわずかに達し得る
和深村大字里川辺の里伝に、河童しばしば馬を岩崖等の上に追い往き、ちょうど右の談のような難儀に逢わせるという。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収