(種類3)
支那に限らず日本にも花驢が渡った事ある。かつて一七四六年版、アストレイの『
合算して十六万クラウンに当る。何と仰天だろうとあるを読んで、そんな事をもしや邦書に載せあるかと
『食鑑』は予蔵本あれど、田辺にないから『要覧稿』に引いたまま写そう。いわく、
〈近代
と。
『食鑑』は元禄八年人見元徳撰す。因って花驢は、少なくとも今より二百年前本邦へ渡った事ありと知る。花驢は馬とも驢とも付かず、この二畜の
馬属の最後に
その蹄の縁極めて鋭く、中底に窪みあり、滑りやすき地を行き、
ニービュールが、アラビアで見た体大きくて、
メッカでは驢を愛育飼養するにもっとも力めたので、その驢甚だ賢くなり、よくその主の語を聞き分ける故、主もまた自分の食を廃しても驢に食を与うという。プリニウスの説に、驢は寒を恐る、故にポンツスに産せず、また他の
想うに、『史記』匈奴列伝に唐虞より、
奇畜とは、上代支那人が希有の物と見たのをいうので、ここにいえる騾は
さてと騨は確かに知らねど、いずれも野馬と註あれば、上述のチゲタイやキャングや