(史話6)
本邦にはあいにく虎がないから外国に渡った勇士でなければ虎で腕試しした者がない。膳臣巴提便(『日本紀』)、壱岐守宗于が郎等(『宇治拾遺』)、加藤清正(『常山紀談』)、そのほか捜さばまだ多少あるべし。
『常山紀談』に黒田長政の厩に虎入り恐れて出合う者なかりしに菅政利と後藤基次これを斬り殺す、長政汝ら先陣の士大将して下知する身が獣と勇を争うは大人気なしと言った。その時政利が用いた刀に羅山銘を作りて南山と名づく、周処が白額虎を除いた故事に拠ると出づ、『菅氏世譜』に政利寛永六年五十九歳で歿したとあるから、文禄中虎を斬った時は三十四、五の時だ。長政罪人を誅するに諸士に命じて見逢に切り殺させらる、長政側近く呼んでその事を命じ命を承けて退出する、その形気を次の間にある諸士察して仕置をいい付けられたと知った、しかるに政利に命じた時ばかり人その形気を察する能わず、この人天性勇猛で物に動ぜなんだからだと貝原好古が記し居る。
『紀伊続風土記』九十に尾鷲郷の地士世古慶十郎高麗陣に新宮城主堀内に従って出征し、手負の虎を刺殺し秀吉に献じたが、噛まれた疵を煩い帰国後死んだとは気の毒千万な。
「虎と見て石に立つ矢もあるぞかし」という歌がある。普通に『前漢書』列伝李広善く射る、出猟し草中の石を見て虎と思い射て石に中て矢をい没む、見れば石なり。他日これを射たが入る能わずとあるを本拠とするが、『韓詩外伝』に〈楚熊渠子夜行きて寝石を見る、以て伏虎と為し、弓を彎きてこれを射る、金を没し羽を飲む、下り視てその石たるを知る、またこれを射るに矢摧け跡なし〉とある方が一層古い。
『曾我物語』にはこの事を敷衍して李将軍の妻孕んで虎肝を食わんと望む、将軍虎を狩りて咋れ死す、子生れ長じて父の仇を覓め虎の左眼を射、馬より下りて斬らんと見れば虎でなくて苔蒸した石だった、その時石に立てた矢が石竹という草となったとある。『宋史』に〈元達かつて酔って道傍槐樹を見る、剣を抜きてこれを斬るに樹立ちどころに断つ、達ひそかに喜びて曰く、われ聞く李将軍臥虎を射て羽を飲ましむと、今樹我がために断つ豈神助か〉、『東海道名所記』等に見えた石地蔵が女に化けて旅人に斬られた話は、石橋臥波氏輯『民俗』第三報へ拙考を出し置いた。
南宋の淳煕三年金国へ往った大使の紀行『北轅録』にも〈趙州に至る、道光武廟を経て二石人あり、首路に横たわる、俗に伝う、光武河を渡らんと欲し、二人餉を致す、その蹤を洩さんと慮りすなわちこれを除く、またいう、二人に遇いて道を問うに答えず、怒ってこれを斬る、すでにして皆石なり〉とある。
沈約の『宋書』に檀和之林邑国を討った時林邑王象軍もて逆戦う、和之に蹤いていた宗愨謀って獅の形を製し象軍に向かうと象果して驚き奔りついに林邑に克ったとある、この謀ずっと古くよりあった証は『左伝』に城濮の戦に晋の胥臣虎皮を馬に蒙せて敵の軍馬を驚かし大勝したとある。
back next
「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収