(史話7)
林宗甫の『和州旧跡幽考』五に超昇寺真如法親王建、天正年中絶え果て今は形ばかりなる廬に大日如来一躯あり云々、平城帝第三の御子、母は贈従三位伊勢朝臣継子、大同の末春宮に坐し世人蹲踞太子と申したてまつる、弘仁元年九月十二日三十七歳にて落飾し東大寺の道詮律師の室に入らせて真如親王となん申しき、弘法大師に随いて真言宗を極めたまえり、貞観三年奏聞を経唐に渡りここには明師なしとて天竺に渡る、唐土の帝渡天の志を感じて多くの宝を与えたまいけるに、その由なしとて皆々返しまいらせて道の用意とて大柑子を三つ留めたまえりとぞ、僧宗叡は帰朝すれども伴いたまえる親王は見えたまわねば唐土へ生死を尋ねたまえりける、その返事に渡天すとて獅子州にて群れける虎の逢いて食いたてまつらんとしけるに、我身を惜しむにはあらず我はこれ仏法の器物なり、過つ事なかれとて錫杖にてあばえりけれどついに情なく食いたてまつるとはるかになん聞えしとこそ書きたれとある、弘仁元年に三十七歳とは誤写で確か七、八十歳の高齢で虎に食われたまいしと記憶する、さしも九五の位に即きたもうべかりし御方の虎腹に葬られたまいしは誠に畏れ多き事だが、かつて「聞く説く奈落の底に沈みなば刹利も首陀も異ならざるなり」と詠みたまいしを空海がかく悟りてこそ「如来位までは成り登るなり」と讃めまいらせたなどを攷うるとよほど得脱した方と察したてまつる。
インドにも親王の御履歴に少しく似た話が『賢愚因縁経』十二に出て居る。仏鷲頭山に在った時波羅奈王の輔相一男児を生むに三十二相備わり満身紫金色で相師感嘆す、その母素性良善ならず、しかるにこの子を姙んでより慈悲厚くなる、因って生れた子を慈氏と名づく、王その高徳あって必ず位を奪わん事を恐れ宮中に召して殺さんとす、父これを愍み子をその舅波梨富羅国の師波婆利に送る、舅に就いて学問甚だ通じければ会を作してその美を顕揚せんと一弟子を波羅奈国に遣わし輔相に謀り会資として珍宝を得んとす、その弟子中道で人が仏の無量の徳行を説くを聞きて仏に趣く途中虎に食われ、善心の報いで天に生まる、旧師波婆利慈氏のために大会を催すところへ悪波羅門押し懸けて詛い波婆利大いに困る、ところへ虎に食われた弟子天より降り殃を脱れんとならば仏に詣れと教え一同を仏教に化した、話が長いから詳しくここに述べ得ぬ。
『経律異相』四五には牧牛児あり常に沙門の経誦むを歓び聞く、山に入りて虎に食われ長者の家に生まる、懐姙中その母能く経を誦む、父この子の所為と知らず鬼病と為う、その子の前生に経を聞かせた僧往きて訳を話しその子生れて七歳道法ことごとく備わった大知識となったとある。支那には虎に食われたのを知らずに天に上ったと思っていた話がある。
『類函』に『伝異志』を引いて唐の天宝中河南氏県仙鶴観毎年九月二日の夜道士一人天に登るといって戸を締む、県令張竭忠これを疑いその日二勇者に兵器を以て潜み窺わしむ、三更後一黒虎観に入り一道士を銜み出づるを射しが中らず、翌日竭忠大いに太子陵東の石穴中に猟し数虎を格殺した、その穴に道士の冠服遺髪甚だ多かったと見ゆ。後漢の張道陵が蟒に呑まれたのをその徒が天に上ったと信じたのにちょっと似て居る。
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「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収