(史話5)
勇士が虎に勝った史話は多く『淵鑑類函』や『佩文韻府』に列べある。例せば『列士伝』に秦王朱亥を虎圏の中に著いた時亥目を瞋らし虎を視るに眥裂け血出濺ぐ、虎ついにあえて動かず。『周書』に楊忠周太祖竜門の狩に随うた時独り一虎に当り、左にその腰を挟み右にその舌を抜く、小説には『水滸伝』の武松李逵など単身虎を殺した者が少なからぬ、ただし上の(三)にも述べた通り虎の内にも自ずから強弱種々だから、弱い虎に邂逅せた人は迎えざるに勇士の名を得たのもあろう、『五雑俎』巻九に虎地に拠りて一たび吼ゆれば屋瓦皆震う、予黄山の雪峰にあって常に虎を聞く、黄山やや近し、時に坐客数人まさに満を引く、然の声左右にあるごとく酒几上に傾かざる者なしとあって、虎の声は随分大きいが獅に劣る事遠しだ、『類函』に魏明帝宣武場上にて虎の爪を断ち百姓をして縦観せしむ、虎しばしば圏を攀じて吼ゆる声地を震わし観者辟易せしに、王戎まさに十歳湛然懼色なしとある、予などは毎度多くの獅、虎が圏中で吼ゆるを観たが一向懼ろしくなかった、家内にあって山上の虎声に駭き酒を傾したなどは余程の臆病者じゃ。
『五雑俎』にまた曰く壮士水碓を守りしが虎に攫まれ上に坐らる、水碓飛ぶがごとく輪るを虎が見詰め居る内にその人甦った、手足圧えられて詮術ない、ところが虎の陽物翹然口に近きを見、極力噛み付いたので虎大いに驚き吼え走ってその人脱るるを得た、またいわく胡人虎を射るにただ二壮士を以て弓をき両頭より射る、虎を射るに毛に逆らえば入り毛に順えば入らず、前なる者馬を引き走り避けて後なる者射る、虎回れば後なる者また然す、虎多しといえども立ろに尽すべしとは、虎を相手に鬼事するようで余りに容易な言いようだが、とにかくその法をさえ用いれば虎を殺すは至難の事でないらしい。
また曰く支那の馬は虎を見れば便尿下りて行く能わず、胡地の馬も犬も然る事なし、これに似た話ラヤードの『波斯スシヤナおよび巴比崙初探検記』(一八八七年版)にクジスタンで馬が獅を怖るる事甚だしく獅近処に来れば眼これを見ざるにたちまち鼻鳴らして絆を切り逃げんとす、この辺の諸酋長獅の皮を剥製して馬に示しその貌と臭に狎れて惧るるなからしむと見ゆ。畜生と等しく人も慣れたら虎を何ともなくなるだろう。したがって虎を獲た者必ずしも皆勇士でもなかろう。
ベッカリはマラッカのマレー一人で十四虎を捕えた者を知る由記し、クルックは西北インドで百以上の虎を銃殺した一地方官吏ありと言った、『国史補』に唐の斐旻一日に虎三十一を斃し自慢しいると、父老がいうにはこれは皆彪だ、将軍真の虎に遇えば能く為すなからんと言ったので、真の虎の在処を聞き往って見ると、地に拠って一度吼ゆれば山石震い裂け馬辟易し弓矢皆墜ち、逃げ帰ってまた虎を射なんだとある。字書に彪は小虎といえり、虎の躯が小さい一変種であろう。
『類函』に虎能く人気を識る、いまだ百歩に至らざるに伏してゆれば声山谷に震う、須臾して奮い躍りて人を搏つ、人勇ある者動かざれば虎止って坐り逡巡耳を弭れて去ると。猛獣に遇った時地に坐れば撃たれぬとは欧人も説くところだ。勇士に限らず至極の腰抜けでも出来る芸当だ。
back next
「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収