2 須川氏の紀州で最も古い家
故絲川恒太夫氏から聞いたのは、この八つ棟造りの棟上のとき、大工の棟梁が式に用いた槌を天井裏に忘れ置いた。その後、夜に入ると天井を雷のように転がり歩く音がたびたびする。怪しんで天井を破って見ると、ツバキの木で作った槌を置き忘れてあったのが化けたのだった。ツバキで槌を作らないものだそうだ。
熊楠が福路町の松場久吉氏から聞いたのは、那智に一つだたらという1足の怪物がいたとき、3足の鶏とツバキで作った槌を使い、3人連れで化け歩き、いろいろと人を悩ましたとのこと。これはツバキの棒は至って堅くて折れにくいから、犬殺しや油をしめる人が使ったものだ。『日本紀』にも、景行天皇がツバキで槌を作らせ、豊後の郡賊をたたき潰した、とある。致命傷を加えるほどの凶器だったから、昔は殺人の外に用いなかった。自然これを忌むあまり、化けるなどと言い出したと見える。
17年前、予は毎度、請川村の川湯辺でマネアという藻があると夢に見て、行って見たところが、果たしてそれを見つけることができた。そのとき、件の徳卿の宅蹟に行き、上述の井土と石垣を見た。また川湯の川上の薬師堂を尋ねたところ、堂の周囲におびただしく大きな石灯籠が立っていた。年号は忘れたが、みな須川氏の人々が立てたので、須川…藤原の宣政などと刻んであった。こんな所にこのような石灯籠を多く立てたのは、よほどの豪族であったと思われた。
いろいろ聞き合わすと、もと須川氏はどこかから落ちて来た平家の残党で、今も請川に平家の岩屋などという所があり、平家のタバコといってその人々が隠れながら用いたタバコも生えているという。よって行って見ると、田辺近傍の稲荷村などでもある岩に生ずるイワタバコという物で、タバコとは別類の物であった。石灯籠の銘には藤原氏とあるのに平家とは怪しいと思ったが、諸国で例があるように、昔は落人や隠れ人を一般に平家と言ったらしい。
須川氏の最も古い家は、代々、長兵衛と名を継ぎ、小口村の畝畑といって、険しい山の真中に深く穴のようにへこんだ底に住む。牛は幼いときにこの底に連れ込まれて一生穴の中で暮らし、外へ出ることなしに死ぬという。また、よほど生産物に限りがあった所と見えて、親が年寄ると子が谷底へ突き落とすのを恒例とした。そのとき親を座らせて突き落とした岩が今もあるとのこと。飛騨の国吉城郡吉野村に人落(ひとおとし)という地がある。昔、62歳になった老人を必ずここで捨てたというが、これも突き落としたから人落というのだろう。須川寛得氏の話に、この畝畑の山中にコーヒーの自然生えが昔からあって腹痛の妙薬としてきた、と。これも上述した平家のタバコの同例で、何か別の物と思う。
須川長兵衛の家には、代々、護良親王の兜と盃とかを伝え、その兜を模したという親王の像を、明治16年東京上野公園の第1回絵画共進会で予は見た。兜はどうなったか知らず、盃は明治37〜8年ごろまで長兵衛氏宅にあったと聞いたが、その後どうなったか知らない。また長兵衛氏の家が今も続いているのかいないのかも聞かない。