東牟婁郡請川村の須川氏について(現代語訳1)

東牟婁郡請川村の須川氏について(現代語訳)

  • 1 請川村の豪家
  • 2 須川氏の紀州で最も古い家
  • 3 戦国時代の須川氏
  • 4 須川家と南方家


  • 1 請川村の豪家

     

     東牟婁郡請川村に須川氏が多く、その内の若干は郡内有数の豪家であったと聞こえ、有名な玉石麿礼彦氏もその分れという。

     今から百余年前、須川徳卿という者がいて算学で名高く、かつて尾張の徳川家から召されたとき、自分で行って、自分の藩を出て多藩に仕えることは本意ではないと、断って帰って来た。この人の前にある熊野川を下り来る船をソロバンで置き留めたという。算術で人を笑わせ続けた話が『宇治拾遺物語』に見え、種々の天変を興した話が『吾妻鏡』に出るところを見ると、昔は名算家と讃えるあまりこのようなことを付け加えたらしい。

    かつて川原で拾って来た大小形状が定まらない石で、垣を家の周囲に築かせた後、その数を数え当てると1個足らない。徳卿は、決して勘定は違わないはず、今一度垣を崩して数え見ようといって、築き改めさせると、果たして1つの石を横に積まずに縦に積み入れてあったという。また井側を砥石で築かせて、子孫が衰えたら、これを売って家を維持せよ、と言ったとのこと。これは有田郡栖原の北村氏でもあったことと聞く。この徳卿の後にいろいろに分かれていて、当町の歯科医院主寛得氏もその1人だが、ただいま郵便局をしている甚助氏の家が徳卿の長子の後で本家らしい。

    この徳卿のまたの本家をもと大庄屋と言った。代々の豪家で、新宮藩主が来て宿泊する御殿を建ててあった。その後、十太平という人の代まで請川に住み、その娘は北山から長三郎という入婿を迎えて、今は新宮に住む。十太平の弟隆吉は数年前和歌山で死に、その子は那智裏の色川村で教員をしているその母は熊楠の妻の姉だが、これも今は亡き人になった。

     徳卿の子の代とか、飢饉の年に村民を救うために自邸に八つ棟造りの大建築を起こした。これは奢侈の沙汰ではなく、村民を援助するのに、何もしないのに米銭をやるのは結果よろしくないと考えて、日々労役させて工賃に托して救済したので、よほどよい考えを持った人と感心の外ない。この大建築の雨戸を朝から開け始めて、みな開き終わるや、直ちに閉めに掛からないと日が暮れてもみなまで閉まらなかったという。

    また尾鷲で捕われた盗賊を本国大和へ送ろうとして船で熊野川を上らせたとき、その盗賊はこの八つ棟造りの屋根の煙出しを見て様子が変わったから、付き添った役人が問うと、私はあの煙出しに4年住んだが誰も気付かなかった、と言った。その煙出しは八帖敷というから狸のキン玉の大きさだったのじゃ。なんとえらいことでございます。

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    「東牟婁郡請川村の須川氏について」は『南方熊楠全集 第6巻 新聞随筆・未発表手稿 』所収。

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