東牟婁郡請川村の須川氏について(現代語訳4)

東牟婁郡請川村の須川氏について(現代語訳)

  • 1 請川村の豪家
  • 2 須川氏の紀州で最も古い家
  • 3 戦国時代の須川氏
  • 4 須川家と南方家

  • 4 須川家と南方家

     元禄6年12月3日、5代将軍綱吉公が柳沢保明の邸に臨むや、内蔵助は三学の太刀をご覧に入れ、また公の御相手となって撃剣する。同12年閏9月31日、同邸にお成りのときは、内蔵助は将軍の前で新陰流兵法玉成秘書を講じ、また仰せのままに宗冬の孫備前守俊方(としかた)と三学九箇の小刀を仕った。

    宗冬の子対馬守宗在は、5代将軍の兵法師範だったが、元禄3年に死んで、その養子俊方が17歳で継いだが当時年若かったので、その祖父の入室の弟子で、芸道からいえば、その父の従兄分に当たる内蔵助がもっぱら柳生流の勢望を維持したものと見える。寛得氏の話で、須川徳卿の後に循治(じゅんじ)という人が現在東京深川に住み、養鶏を業とし、震災にも無事だった。この人は乗馬鎗刀の武術に達し、以前は陸軍士官学校で教官だったという。思うに、むかし須川家から内蔵助のような達人を出した家の伝説に感じて、循治氏も武に志したものか。

     以上の次第によって考えると、請川に多い須川氏は、小口村にある須川長兵衛から分かれ出たので、長兵衛はもと大和須川の城主で、柳生但馬守宗矩の姉の娘の夫だった長兵衛と同族らしい。思うに、天文12年に須川藤八父子が戦死した後、その子弟が四散して、1人は大和に留まって柳生氏に仕え、長兵衛と称して柳生宗厳(むねとし)の聟になり、また1人は紀州小口村に落ちて来て、これもまた長兵衛を名乗り、家宝である大塔の宮の遺品を伝え守ったので、藤八の他は代々多くは長兵衛という名を世襲したので、大和・紀伊に分かれて住んだ後、両方とも長兵衛と名乗ったのではあるまいか。

    とにかく須川氏の先祖はどこから来たのか、紀州ではわからず、大和ではまた須川氏の後はどうなっていったのか、少しもわからなかったところ、杉田氏と予との文通からこのことが明らかになったのは、柳生子爵家にも須川家一同にも、また須川家と縁のある熊楠にとっても顕晦時ありと大いに慶賀喜悦すべき快事である。

     南方という家は、むかし三好氏の本家である小笠原氏に、東方、西方、南方、北方という4家老があって、それが紀州へ来て落ちぶれた者の末と見える。しかしながら、伊予国には、紀州から移り住んで大法螺でも吹いた者か南方殿と尊称される家もあったとのことを、父保盛丸(ちちやす もりまる)氏より教えられた。また毛利元就の味方をした出雲の南方氏もある。

    予は青年時代にしばしば小笠原誉至夫氏とつかみ合ったが、いわば主人と闘ったようなものだ。近日また主従の旧縁を言い立てて強力を乞いに行こう。さて小笠原の支流である三好氏と敵だった須川と予とが縁のあるようになったのも妙なことで『野史』 十河存保伝を見ると、紀州の田村康広は三好方だったとあるから、予が田村氏の娘を妻としているのは、先祖の志に叶うものか。

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    「東牟婁郡請川村の須川氏について」は『南方熊楠全集 第6巻 新聞随筆・未発表手稿 』所収。

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