3 戦国時代の須川氏
大和国吉野郡野迫川村北股は、高野奥立入荒神が嶽に遠くなく、なかなかの寒村らしい。そこの小学校の教員の杉田定一氏は菌学上、予と文通する。この人は同国笠置山に近い柳生藩の士族の出で、今月1月『柳生六百年史』を著し、1本を予に贈られた。その内に偶然、須川長兵衛という名が見えたので、予は紀州の須川長兵衛のこと、またその支流である請川の須川氏諸家のことなどを筆して贈ったところ、3月になって『須川氏について』という全11葉の謄写版刷の冊子を贈られた。
それを見ると、大和の添上郡東里村大字須川という地がある。村役場がある所で、笠置山脈中の山村で、奈良の東方3里、関西線笠置駅から西に約2里にある。須川氏は代々この地の住人で、その初めて見えるのは、『多聞日記』で、「天文10年、細川氏の家臣木沢長政が三好長慶と戦ったとき、柳生子爵家の祖である美作守家厳(いえよし)が長政を援け、須川氏も長政を援けた。天文12年4月16日、三好方である筒井順昭(山崎合戦に両端を持した日和見の順慶の父)が須川を攻める。須川に城が二つあり、この日に2つとも落城し、須川藤八(城主であろう)親子始め討死に、筒井方の手負いも限りない。筒井の重臣中坊氏らも戦死する。筒井勢は6000余騎であるのに、須川勢はわずかに50〜60人で立て籠り防戦した。弓矢を取っての名誉は須川を越えることはできない。まことに張良をもあざけるべき武士であることだ」と誉め立ててある。
翌年7月、去年の須川攻めで柳生家厳が須川を助けた仕返しに、順昭が大軍を向けて柳生の城を攻め、3日して落城し、家厳はやむを得ず筒井に従ったが、永禄3年からまた松永久秀の味方をして筒井と戦った。その後、家厳の第8子但馬守宗厳(むねとし)は浪人となったが、剣術をもってあらわれ、その子但馬守宗矩は剣術無双で3代将軍家光公の師であった。この人が関ヶ原の軍功をもって家康公から先祖来の柳生の本領を2000石を賜わったのを振り出しとして、12500石の諸侯となり、正保3年76歳で亡くなった後、当時として非常の恩典で武家ながら従四位下を贈られた。
宗厳には全部で5男6女の子がある。第1子は新次郎厳勝、第8子が最も高名な但馬守宗矩だ。第2子は女で、大和狭川村の領主福岡孫左衛門に嫁ぐ。この夫婦が生んだ娘が須川村の須川長兵衛に嫁ぎ、生まれた嫡子は宗厳の外曾孫に当たり、宗厳の孫で宗矩の三男である飛騨守宗冬より柳生新陰流の秘奥を伝えられ、柳生姓を許されて柳生内蔵助と名乗る。