亡父の示現
たとえば、ナギランという蘭は、『草木図説』に南紀に産すと見え、『古今要覧稿』には鎌倉に多いと言い、小野蘭山の『採薬志』にも熊野太地浦の向島で取れるとある。以前はずいぶん多かった物と見えるが、取り尽くしたのであろうか、近ごろはその天然産を見たことなく、牧野富太郎氏がこれを記載した時も、培養品のみに拠ったようである。
それなのに、予が那智にいて、ある朝早く起きて静座していると、亡父の形がありありと現われ、言語を発せずに、何となく予に宿前数町の地にナギランがあると知らす。予はあまり久しく独居する時は、このような迷想を生ずるものと思って捨て置いたが、翌朝も、翌々朝も続けて10余回同じことがある。件の地は宿の近いけれども、予がその時までかつて近づいたこともなかった場所である。さて縁戚の家の手代が来たので、このことを話し、共に行って右の地を探るに、ナギラン1株を得た。
その日いかに捜しても1株しかなかったが、翌日予が1人で行き17株を得た。その後引き続き探すと、その近傍にかれこれ40株ばかりあったが、みなは取らず、20余本を取り、田辺と和歌山に送り植えたが、田辺の物は次第に減りながら今もある。夏に及び開花したのを標本にし、去年牧野氏に贈った。土佐にもあるとのことである。ただし培養品か天然産かは知らない。
またステファノスフェラというのは、1852年ころ初めてドイツで発見され、次にラプランド、英国等で探し出されたが、きわめて希有の微細な藻で、1890年、予が米国に留学のころ、ずいぶん学者の多かった米国ですら見つからなかった。
図のように 直径1000分の26〜52mmの小球中に、8つの緑色細胞がある。地球の赤道のように最大軸をなして各自等距離におり、毎胞2□を具し、岩上の小窪に溜まっている雨水中を転げ回る。この学問に一生を□殺する諸大家ですら、その生品を見た者は少ない。
しかしながら、予は明治37年4月18日、宿所にいて偶然、隣の裏口の田水にこの物があると感得し、物は試しとこの場所に赴き、小瓶に水を取って帰り、検鏡した第一滴中にこの奇藻があった。ただちにオスミック酸で固定し、今も現品を保存しているが、ただ1顆を獲たのみである。その後、数日かかって検鏡するが、さらに後を見ることはできなかった。
また、その前年、和歌山にあった日、ある朝、夢に亡父が来て、ピトフォラ・エドゴニア・ヴォーケリオイデスを獲りたいならば、今日、日前宮に詣れと教えてくれた。その日は晴天であったのを幸い、日前宮に詣り、帰途に種々の藻を集めたが、件の種を見なかった。夕方近くなったので、和歌山市の東郊、畑屋敷に入ろうとする道端に紡績会社用のため新たに掘った小池がある。その中に一塊の暗緑色の藻が浮かんでいた。
これはその辺に多いヴォーケリア属のものであろうと思い、そのまま行き過ぎようとしたが、なんとなく気にかかり、また引き返してこれを取り、家に到って検鏡したところ、夢に見たその種の藻であった。よってこれを英国に送り、学士会員ハウス氏の鑑定を求めたが、まったく予と同見とのことを『ネーチャー』という雑誌に載せられた。
この藻は1878年に米国のワレ氏が米国北部で見出し、明治24年に予がフロリダ州で採ったが、その後、同州で採った者はなく、切に懇望してきたので、昨夏予の採品の一部をワシントンの国立博物館へ寄付した。その後、バーミンガム大学の藻学大家ウェスト教授より、この属の藻は東半球に4〜5種あると承ったが、旧説により予は、この属は全く西半球にのみ自生するものと心得ていたのに、かつてフロリダで見出したのと同一種をまた和歌山で見出したのだ。