黒田孝高
日南氏の『黒田孝高』はなかなか面白い。その当時の列侯のなかでキリスト教を信奉した者を挙げているが、佐々成政を漏らしている。
中川清秀もその信徒で、キリスト教保全を条件にして、高山とともに信長に付いたと聞く。その家の紋の轡のようなのをクルスという。スペイン語で十字架の意味である。この人がキリスト教徒であったことを、宇都宮由的は著書に記して出版禁止にされた、と湯浅常山の『文会雑記』に見える。
また内藤如安の名が我が国のハイカラ名の嚆矢に近いのは、日南氏の説の通り。これに対してその頃名族女子のハイカラ輩をむかし大英博物館の古文書で調べたが、天正17年及び18年に支那からジェス教会総長に差し出した書簡に、筑後のトシロドノ(久留米藤四郎秀包)はフランシスコ王(大友義鎮)の娘マッセンチヤを娶り、夫婦ともキリスト教を厚く信奉している、とある。これらがずいぶんハイカラな婦人だと思われる。
ついでに言う。むかし我が国から外国へ渡った印章にXiとあるのは、誰のことか詳らかでない、と書いた物が多い。予が思うに、これは菊池か筑紫であろう。いずれも九州の旧家大名である。
さて、日南氏は孝高の子、長政が城井谷(きいだに)の宇都宮鎮房の娘を娶り、その父をおびき寄せて殺した後、娘すなわち自分の内室を磔にして殺したというのは虚説と断定された。人の道を明らかにする教えのために書を編むのならばもっともらしい次第であるが、史実の判断としてはいかがであろうか。
『川角太閤記』巻五に、孝高が佐々成政を見舞いに肥後に行って不在中に、長政が紀伊刑部少輔(鎮房)を討つ場面が書かれている。(※中略※)
この書は、黒川春村の説によると、堀正意の弟、西川原角左衛門が寛政年中に記した物で、日南氏が引いた広島の城が庚子の役で籠城に不便であったことなども出ていて、多くは実話と見える。
外にもその時代に近くに記された書に、黒田父子の仕方の酷であった様を記したものがあるので、その頃大いに世に非難されたことと見え、鎮房の騙し討ちは長政のみならず、孝高もあらかじめ知っていたことで、その頑強不敵をはなはだ憎んだ父の意を推測して、長政は自分の妻を火刑に処し、孝高はこれを聞いてすこぶる満足したのだ。