15-3 肉吸いという鬼
「肉吸い」という鬼 紀州田辺町に住む前田安右衛門、今年67歳、以前久しく十津川辺りで郵便脚夫を勤めた。この人が話したことに、
むかし東牟婁郡焼尾の源蔵という高名の狩人が果無山を行くと、狼が来てその袖を咬み引き留める。そのとき18,9の美しい娘がホーホー笑いながら来て近づき、「源蔵、火を貸せ」と言う。妖怪に決まっていると思い、やむを得なければ南無阿弥陀仏の弾丸で撃とうと思っているうち、何事もなく去る。それから狼がまた袖を咬み行こうと勧める様子なので源蔵は安心して歩みだした。その後、また2丈程の背の高い怪物の遇い、南無阿弥陀仏と彫りつけた弾で撃つと、大きな音がして倒れたので行って見れば白骨だけが残っていたと。
また25年前、前田氏が北山の葛川郵便局に勤めていたとき、ある脚夫が木本の付近の寺垣内から笠捨という峠まで4里のウネ(東山の背)を夜行して来ると、後ろより18,9の若い美女がホーホー笑いながら来て近づく。脚夫は提灯と火縄を持っていた。その火縄を振って打ち付けると女は後ろへ引き返した。脚夫は葛川の局へ来て、恐ろしいのでこの職をしばらく止めようと言うので、給料を増し六角(6発の訛称、拳銃のこと)を携帯させて、前のとおり、かの山を夜行したが一向に異事はなかったとのこと。
これは肉吸いという妖怪で人に触れればたちまちことごとくその肉を吸い取るとのこと。
熊楠はかつて20年前に出たウエルズか誰かの小説で、火星世界の住人がこの地球に来て乱暴する体を述べて、火星人は支体にタコの吸盤のような器を具し、地上の人畜に触れてたちまちその体の養分を吸い奪い、何とも手に合わないところ、かの世界に絶えて無く、この世界に有り余ったバクテリアがかの妖人を犯して苦もなく倒し終わるとあったと記憶するが、その他に類似の話を聞いた事がなく、肉吸いという名も例の吸血鬼などと異なりすこぶる奇抜なものと思う。