(民俗(3)4)
日本人、上古専ら水で洗浴して身を潔めたが、香水薫香等で荘厳した事はないらしく——実は清浄の点から言えばそれがよいので、中古の欧人などは身を露わすを大罪とし、むやみに香類で垢を増すのみ。洗浴を少しもせず、聖僧の伝記に浴せざる年数を記してその多きを尊んだくらい故、三世紀の疥癬大流行など自然の成り行きで、シェテレやパルセヴァルやトリスタンやイソールト、その世に称揚された美人好男いずれも千載一洗せぬ乞丐的の人物だった由ミシュレーが言った——日本に調香の知識が開けたは、漢土天竺の文物が輸入されたに始まったらしい(『仏教大辞彙』一巻香の条、久米博士『日本古代史』八二節、推古帝菟田野の薬猟の条)。
それが追々発達改善されて世界最精の香道となったが、調香の主な材料は始終外国品多かったは『薫集類抄』等で判り、いずれも日本へ移殖のならぬもの故やむをえぬ事ながら、鉄漿蓴汁など日本産の間に合う物は自国のを用い、追々は古方に見ぬ鯨糞などをも使う事を知り用いた。
『徒然草』に、
「甲香は宝螺貝のやうなるが、小さくて口のほどの細長にして出でたる貝の蓋なり、武蔵の国金沢といふ浦にありしを、所の者はへなたりと申し侍るとぞいひし」(『鎌倉攬勝考』附録に図あり)。
その頃まで邦産なしと心得輸入品を用いおったが、ようやく右の地で捜し出たらしく、古人苦辛のほど察すべし。このばかり焼けば臭悪しきも、衆香に雑えて焼かば芳を益し合香に必須だ。ベーカーの説に、かかる紅海にも産し、ある海藻とともに諸香に合せ婦女の身を燻ぶると、猫に天蓼ほど男子を惹き密くる由。
以上は上流社会に行われた香道の譚で、絵で言えば土佐狩野のように四角張ったものだが、鬢附油の匂いに至っては専ら中下の社会を宛て込んで作ったちょうど浮世絵様の物なれば、下品といえば下品なると同時に、人に感受さるる力も強く、また解りやすい。因って鬢附油の口伝秘訣等から考えて、これと兄弟ほど近類なる塗香を、その国々の好みに応じて作り出し売り試みよと人々に勧めた事であった。
その調剤の次第については種々聞き書きまた考え置いた事もあるが、自分の家代々長生なりしに、父がよせば善いのに一代分限を起して割合に世を早くしたから、父も儲けざあ死ぬるまい、金が敵の世の中と悟り、あいなるべく金の儲からぬ工夫を専一にしおれば、余り金になりそうな話をするを好まぬ。ただわが邦の人の眼界甚狭く、外人が先鞭を着けた跡を襲踏するのみで、われより先例を出す事少なきを笑止に思い、二十余年既に予に右様の思案が泛みいたてふ昔話を做し置く。
香材の出処実に思いのほかなるもありて、一九〇三年版マヤースの『人品および身死後その残存論』巻二第九章附録に、精神変態な人が、頭頂より二種の香液を他の望み次第出した記事と弁論あり。予これを信ぜなんだところ、七、八、九年前の毎春引き続き逆上して頭腫れ、奇南香また山羊にやや似た異香液不断出た。
人により好き嫌いあるべきも、香油質のやや粘ったもので、予自身は甚だ好きだったが、医者が頑癬の異態だろうとて薬を傅けても今に全癒せぬが、香液は三年切りで出でやんだ。人畜の体より出て、塗香に合すべき見込みあるもの多きもここに述べ得ず。ただ麝、麝鼠、麝牛、霊猫、海狸等の体より分泌する諸香に遠く及ばねど、諸獣の胆や頑石や牡具の乾物も多少その用に充て得と言い置く。レオ・アフリカヌスはアフリカのセネガ人馬を得れば塗香の呪言誦しながらその馬の全身に塗ると書いた。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収