(民俗(3)3)
日本戒律宗の祖鑑真は唐より薬物多く将来し、失明後も能く嗅いで真偽を別ち、火葬の節異香山に満ちた。元興寺の守印は学法相、倶舎を兼ねた名僧で、不在中に来た客を鼻で聞き知った。勝尾寺の証如は過ぐる所の宅必ず異香を留め、臨終に香気あまねく薫じた。
その他名僧名人に生前死後身より妙香を出した伝多きは、その人香道の嗜み深く、その用意をし置いたらしい。木村重成ら決死の出陣に香で身を燻じた人多く、甚だしきは平定文容姿言語一時に冠絶し「人の妻娘何に況や宮仕へ人は、この人に物いはれざるはなくぞありける」(『今昔物語』)。
しかるに本院の侍従にのみ思いを遂げず、その欠点を聞いて思い疎みなばやと思えど何一つの欠点を聞かず。因ってその不浄を捨てに行く筥を奪い嘗るに、丁子の煮汁を小便、野老に香を合せ大きな筆管を通して大便に擬しあったので、その用意の細かに感じ、いかでかこの人に会わずしてはやみなんと思い迷うて焦れ死んだと見ゆ。
以て以前邦人が香の嗜み格別で、今日雪隠へ往って手を洗わなんだり、朝起きて顔を洗わずコーヒーを口に含んで、歯垢を嗽ぎ落して飲んでしまう西洋人と、大違いたるを知るべし。
ただし最古く香の知識の発達したはまずアジア大陸諸国で、支那の『神農本草』既に香剤を収めた事多く、『詩経』『離騒』に芳草しばしば見え、返魂招仙に名香を焼く記事を絶えず。
一七八一年ビルマに滅ぼされた旧帝国アラカンの盛時、国中に十二殿ありて、十二町に散在す。各町の知事毎年その町良家新産の女児を視て最も美な者十二人を選び、殿中に養い歌舞を習わせ、十二歳の始めにこれを王宮に進め、旧制に従って試験を受く。まず娘どもを浴させ新鮮潔白な絹衣を着せ、高壇に上って早朝より日中まで立たしむると、熱国の強日に曝され汗が絹衣に徹る。
一々それを新衣に更えしめ、汗に沾うた絹衣を収めて王に呈す。それには予て着た本人の住所と父の名を書き付け居る。王一々これを嗅いで汗の香好き娘は強壮と知って宮に納れ、好からぬはその絹衣を侍臣どもに渡すと、侍臣各々王から受けた衣に書き付けた名の娘を妻として伴れ去ったので、アラカン王は代々美貌よりも香好き女を貴んだのだ(一五八八年版、ラムシオの『航記紀行全集』一巻三一六頁)。
インドで女をその身の香臭で四等に別つ。最上は蓮花、その次は余の花、次は酒、次は魚だ(一八九一年版、ラ・メーレッス仏訳『カマ・ストラ』一四頁)。 愛の神カマ、五種の芳花もて飾った矢を放って人を愛染す。その一なる瞻蔔迦の花香能く人心を蕩かす。故に節会をその花下に開き、青年男女をして誦歌相誘わしむ。
大日如来が香華燈塗の四菩薩を出して四仏を供養するは上に述べた。『維摩経』には聚香世界の香積仏が微妙の香を以て衆生を化度し、その世界の諸菩薩が、娑婆世界の衆生剛強度しがたき故、釈尊が当り強い言語で伝道すると聞いて呆れる一段あり(近年まである学者どもは蟻は香を出して意を通じ言語に代うと説いた)。
かく行いかく言った東洋人には、遥かに西洋人に優れた香の知識があったので、自分らには解らぬ事を下等とか野鄙とか卑蔑するのが今日西洋の文化或る点において退却を始めおる徴じゃ。しかし以前はさっぱり取るに足らぬように言った日本の三絃を、音楽の最も発達した一つと認め、日本の香道をも彼らに解らぬながら立派な美術と見る論者も西洋に出でおるから、皆まで阿房でないらしい(『大英百科全書』十一版、美術と音楽の条参照)。
back next
「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収