馬に関する民俗と伝説(その5)

馬に関する民俗と伝説インデックス

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  • (付)白馬節会について

  • (伝説一5)

     『礼記らいき』に春を東郊に迎うるに青馬七疋を用いるの、孟春の月天子蒼竜(青い馬)に乗るなどとあり。わが朝またこれになろうて、正月七日二十一疋の白馬を引かれ、元の世祖は元日に一県ごとに八十一疋の白馬をたてまつらしめ、その総数十万疋を越えたという。白馬節会あおうまのせちえの白馬を青馬とますを古く不審いぶかしく思うた人少なからぬと見え、平兼盛たいらのかねもりが「ふる雪に色もかはらてくものを、たれ青馬となづそめけん」と詠んだ。

    しかるにその雪や白粉も、光線の工合で青く見えるから白を青と混じ呼んだらしい(「白馬節会について」参照)。さて高山雪上に映る物の影は紫に見える故、支那で濃紫色を雪青と名づく(一九〇六年二月二十二日の『ネーチュール』三六〇頁)。光線の工合でインド北方の雪山など紺青色に見えるはしばしば聞くところで、青と等しく紺青色も白と縁薄からねば、白馬の白を一層荘厳にせんとて紺青色の馬を想作したのだろう。

    タヴェルニェーなどの紀行に見ゆるは、インド人はしばしば象犀や馬を色々彩って壮観とする由。支那で麒麟きりんは五彩を具うなどいうもこんな事から起ったらしく、かかる異色の畜類を見てその人為に出るをさとらぬ人々は、必ず紺青色の馬も自然に存在すと信じたであろう。

     仏典に載った馬譚を今一つ二つ挙げよう。『大荘厳経論』にいわく、ある国王多く好馬を養う。隣国王来り戦いしがその好馬多きを知り、とても勝てぬと諦め退去した。かの王おもえらく、敵国既に退いた上は馬が何の役にも立たぬ、何か別に人の助けになる事をさせにゃならぬと。すなわち勅して諸馬群を分ちて人々に与え、常にうすかしめた。その後多年経て隣国また来り侵す。すなわち馬どもを使うて戦わしむるに、馬は久しく磨挽きばかりにれいたので、めぐり舞い行きあえて前進せず。てば打つほどいよいよ廻り歩き、戦争の間に合わなんだと。

    知れ切った道理を述べた詰まらぬ話のようだが、わが邦近来何かにつけて、こんな遣り方が少ないらしくないから、二千五百年前のイソップに生まれ還った気になり、馬譚を仮りて諷し置く。それからラウズ訳『仏本生譚ジャータカ』に、仏前生かつてビナレスの梵授王に輔相たり。王の性貪る。悍馬かんばを飼いて大栗と名づく。

    北国の商人五百馬を伴れ来る。従前馬商来れば輔相これに馬の価を問い答うるままに仕払って買い取るを常例とした。しかるに王この遣り方を悦ばず、他の官人をしてまず馬商に馬価を問わしめ、さて大栗を放ちてその馬を咬ましめ、きずつき弱った跡で価を減ぜしめた。商主困り切って輔相に話すと、輔相問う、汝の国許に大栗ほどの悍馬ありやと。馬商ちょうどその通りの悪馬ありて強齶あごつよと名づくと答う。そんなら次回来る時それを伴れて来いと教えた。

    その通りに伴れて来たのを窓より見て王大栗を放たしむると、馬商も強齶を放った。堅唾かたずを呑んで見て居ると、二馬相逢いて傾蓋けいがい旧のごとしという塩梅あんばいに至って仲よく、互いに全身をねぶり合った。王怪しんで輔相に尋ねると、同じ性の鳥は群団して飛び、この二馬は一和してとどまる、これふたつながら荒くて癖が悪く、いつつなを咬み切る、罪を同じゅうし過ちをひとしゅうする者は必ず仲がよいと答え、王をいさめ商主と協議して適当の馬価を償わしめたとある。

    これも根っから面白からぬ話だが、これに関して、いささか面黒おもくろい事なきにしもあらず。皆人が知る通り、誰かが『徒然草』の好い注解本をはなわ検校けんぎょう方へ持ち行きこの文は何に拠る、この句は何よりづと、事細かに調べある様子を聞かすと、検校『徒然草』の作者自身はそれほど博く識って書いたでなかろうと笑った由。

    あたかも欧米に沙翁学シェキスペリアナを事とする人多く、わずか三十七篇の沙翁の戯曲の一字一言をもゆるがせにせず、飯を忘れ血を吐くまでその結構や由来を研究してやまず。がんが飛べば蝦蟆がまも飛びたがる。何の事とも分らぬなりに予も久しくこれに関して読み書きしおり、高名の人々から著述を送らるる事もあり。つらつら考うるに、かようの研究を幾ら続けたって三百年前に死んだ人が真実何と考え何に基づき何を欲してこの句かの語を筆したかは知るべからず。知り得るにしてからが何の益なし。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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