馬に関する民俗と伝説(その6)

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馬に関する民俗と伝説インデックス

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  • (付)白馬節会について

  • (伝説一6)

    だが古今東西情は兄弟なれば、かく博く雑多の事を取り入れて書いた物を、かくまで多くの学者が立ち替り入れ替り研究して出す物どもを読むは、取りも直さず古今東西の人情と世態の同異変遷を研究するに当るらしいので、相変らず遣り続け居る内には多少得るところなきにあらず。既に一昨年末アッケルマンてふ学者が『ロメオとジュリエ』の「一の火は他の火を滅す」なる語は、英国に火傷やけどした指を火を近づけて火毒を吸い出さしむる民俗あり、蝮に咬まれた処へその蝮の肉をけて治すような同感療法ホメオパチーじゃ。 また「日は火を消す」てふ諺もある。

    沙翁はこれらに基づいてくだんの語をひねり出したものだろう。このほかにしかるべき本拠らしいものあらば告げられよと同好の士に広く問うたが、こたうる者はなかったから予が答えたは、まず日月出でて※火しゃっか[#「火+(嚼−口)」、326-10]まずと支那でいうのが西洋の「日は火を消す」とまる反対あべこべで面白い。さて『桂林漫録』に日本武尊やまとたけるのみこと駿河の国で向火むかいび著けてえびすを滅ぼしたまいし事を記して、『花鳥余情』に火の付きたるに此方こなたよりまた火を付ければ向いの火は必ず消ゆるを向火という。

    そのごとく此方より腹を立て掛かれば人の腹は立ちやむものなりとあるを引き居る。今も熊野で山火事にわざと火を放って火を防ぐ法がある。予は沙翁がこれら日本の故事を聞き知ってかの語を作ったと思わぬが、同様の考案が万里をへだてた人の脳裏におのおの浮かみ出た証拠にしかと立つであろうと。かく言い送って後考うると、仏説の悍馬は悍馬を鎮めた話もやや似て居るを一緒に言いやらなんだが遺憾だ。

     英語で※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)とんぼ竜蠅りょうばえ(ドラゴン・フライ)と呼び、地方によりこの虫馬をすと信じてホールス・スチンガール(馬を螫すもの)と唱う。そは虻や蠅をいに馬厩うまやに近づくを見てあやまり言うのだろう。さて竜蠅とは何の意味の名かしばしば学者連へ問い合せたが答えられず。

    『説郛』三一にある『戊辰雑抄』に、昔大竜大湖の※(「さんずい+眉」、第3水準1-86-89)ほとりかわぬぎ、その鱗甲より虫出で頃刻しばらくして蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)あかきにる、人これを取ればおこりを病む、それより朱蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)を竜甲とも竜孫ともいいえてそこなわずと載せたを見て、支那でもこの物を竜に縁ありとするだけは解り、その形体いかめしくやや竜に似て居るから竜より生じたという事と想いいた。

    その後一九一五年版ガスターの『羅馬尼ルーマニア鳥獣譚』十四章をるとこうあった。いわく、ルーマニア人は蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)を魔の馬という、また多分竜の馬ともいうであろう、一名セントジョージの馬ともいいこの菩薩は毒竜退治で名高い、この名の起りを尋ぬるに、往古上帝常に魔と争うたが、上帝は平和好き故出来るだけ魔を寛宥してその乞うままに物を与えた、しかるに魔あらためず物を乞い続けてやまず、上帝耐え兼ねて天人多く集め各々好馬を与えある朝早くこれにりて魔と戦わしめた。聖ジョージは無類の美馬に乗って先陣したが、急にその馬退却し出し、他の諸馬これに倣うて各退却してその後の馬を衝いた。

    爾時
    そのとき
    上帝高声で聖ジョージに、汝の馬は魔に魅された早く下りよと告げ、セントしかる上はこの馬魔の所有物たれと言いて放ちやると、三歩行くや否やたちまち虫とって飛び去った、それからこの虫を魔の馬と名づく、蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)の事だというと。

    ガスターこれを註していわく、このような伝説が西欧と英国にもあったに相違ない、そうなくては、竜の蠅てふ英語は何の訳か分らぬ、想うにこの神魔軍の物語に、以前は神軍より聖ジョージ、魔軍より毒竜進み出で大立廻りを演じ、両軍鳴りを鎮めて見物し竜ついに負けたてふ一節があって、その竜が蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)ったとか、聖ジョージの馬は翼あって飛び得たとかあったのが、いずれも忘れ落されしまったものかと。

    熊楠おもうに、ルーマニア人も支那人と同じく蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)の形を竜に似た者と見しより右様のはなしも出来たので、林子平が日本橋下の水が英海峡の水と通うと言ったごとく、従来誰も解せなんだ蜻※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)の英国名の起原が東欧の俗譚を調べてはじめてわかり、支那の俚伝がその傍証に立つ、これだから一国一地方の事ばかり究むるだけではその一国一地方の事を明らめ得ぬ。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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