(伝説一4)
馬に人勝りの特性ある事は後文に述べるとして、ここには少々馬を凡人以上に尊重した例を挙げんに、宋の姚興その馬を青獅子と名づけ、時に同飲してわれ汝と同力報国せんと語る。後金兵来寇するに及び、所部四百騎もて十余戦せるも、大将王権はまず遁れ、武将戴皐は来り援わず、興ついに馬とともに討死せるを朝廷憫んで廟を建てた。それへ絶句を題する者あり、いわく、〈赤心国に許すは平時よりす、敵を見て躯を捐ててさらに疑わず、権は忌み皐は庸にして皆遁走し、同時に難に死すは只青獅のみ〉と。
いかにも感慨無量で折角飲んだ酒も醒めて来るが、暫くするとまた飲みたくなりゃこそ酒屋が渡世が出来る理窟故ますます感心する。晋の司馬休、敵に殺さるべきを一向気付かず、その馬食事をやめて鞍に注目するを見て乗り試むるとすなわち急に十里奔り、後を見れば収兵至った、かくて難を免れた酬いにその馬に揚武と加号した。
東漢の主劉旻、戦敗の節乗って助かった馬を自在将軍と称え、三品の料を食わせ厩を金銀で飾った。その他哥舒翰がその馬赤将軍の背に朝章を加え、宋徽宗がその馬に竜驤将軍を賜うたなど支那にすこぶる例多いが、本邦にも義経五位尉に成れた時かつて院より賜わった馬をも五位になす心で太夫黒と呼んだなど似た事だ。
欧州にも、アレキサンダー王の愛馬ブケファルスは智勇超群で、平時は王の他の人をも乗せたが、盛装した時は王ならでは乗せず。テーベ攻めにこの馬傷ついたから王が他馬に乗ろうとすると承知せずに載せ続けたというほど故、その死後王これを祀りその墓の周りに町を立てブケファラと名づけた。ギリシアのオリンピヤの競争に捷った三の牝馬は死後廟を立て葬られた。ローマ帝カリグラは愛馬インシタツスを神官とし邸第と僕隷を附け与えた。かかる例あれば梵授王の智馬の話も事実に拠ったものと見える。
さて智馬と同類ながら譚が大層誇大されたのが、仏経にしばしば出る馬宝の話だ。転輪聖王世に出でて四天下を統一する時、七つの宝自ずから現われその所有となる。七宝とはまず女宝とて、膚艶に辞潔く妙相奇挺黒白短なく、肥痩所を得、才色双絶で志性金剛石ほど堅い上に、何でも夫の意の向うままになり、多く男子を産み、種姓劣らず、好んで善人を愛し、夫が余女と娯しむ時も妬まぬ、この五つの徳あり。
また多言せず、邪見せず、夫の不在に心を動かさぬ、三つの大勝あり。さて夫が死ねば同時に死んでしまうそうだから、後家にして他人へかかる美婦を取らるる心配も入らぬ重宝千万の女だ。それから珠宝、輪宝、象宝、馬宝、主兵宝、長者宝という順序だが、女宝の講釈ほどありがたからぬから一々弁ぜず、馬宝だけの説明を為さんに、これは諸経に紺青色の馬というが、『大薩遮尼乾子受記経』にのみ白馬として居る。
日に閻浮提洲を三度匝って疲れず王の念うままになって毎もその意に称うという(『正法念処経』二、『法集経』一)。『修行本起経』に紺馬宝は珠の鬣を具うとあるもこれだ。紺青色の馬はあり得べからぬようだが、これはもと欧亜諸国に広く行わるる白馬を尊ぶ風から出たらしい。
白馬が尊ばるる理由は、多般だがその一を述べると、明の張芹の『備辺録』に、兵部尚書斉泰の白馬極めて駿し、靖難の役この馬人の目に立つとて墨を塗って遁げたが、馬の汗で墨が脱ちて露顕し捕われたとある通り、白馬は至って人眼を惹く。したがって軍中白馬を忌む。しかるにまた強いと定評ある輩がこれに乗ると、同じく敵の眼に付きやすくて戦わぬ内に退いてしまう。
『英雄記』曰く、〈公孫辺警を聞くごとに、すなわち色をくし気を作して、讎に赴くがごとし、かつて白馬に乗り、また白馬数十匹を揀び、騎射の士を選ぶ、号づけて白馬義従と為す、以て左右翼と為して、胡甚だこれを畏る〉。
『常山紀談』に、勇士中村新兵衛、平生敵に識れ渡りいた猩々緋の羽織と唐冠の兜を人に与えて後戦いに臨み、敵多く殺したが、これまで彼の羽織と兜を見れば戦わずに遁げた敵勢が、中村を認めずこれを殺してしまった。敵を殺すの多きを以て勝つにあらず、威を輝かし気を奪い勢いを撓ますの理を暁るべしと出づ。この理に由って白馬は王者猛将の標識に誂え向きの物ゆえ、いやしくも馬ある国には必ず白馬を尊ぶ。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収