(伝説一3)
さて王が苑に遊ぼうと思い智馬を召すと、すなわち背を偃くす。王これは背に病があるのかと問うに、御者答えて王の乗りやすいように背を偃くし居るという。王それに乗って河辺に至れば馬進まず。水を怖るるのかと問うに、尾が水を払うて王に懸るを恐ると答えた。即てその尾を結び金嚢に盛り、水を渉って苑に至り遊ぶ事多日。予てこの王を侮り外出したら縛りに往くと言い来った四遠の諸国、王が城を出で苑に住まると聞き大兵を興し捉えに来る。
王城へ還らんとする中途に、蓮花咲き満ちた大池ありて廻り遠い。しかるを智馬身軽く蓮花を踏んで真直ぐにそろそろ行きながら早く城に入り得たので敵は逃げ散ってしまった。王大いに喜び諸臣に告えらく、もし能く灌頂刹帝大王の命を救う者あらば何を酬うべきやと。諸臣さようの者には半国を与うべしと白す。
ところが畜生に、国を遣っても仕方がないから智馬を施主として大いに施行し、七日の間人民どもの欲しい物を好みの任に与うべしと勅諚で無遮大会を催した。販馬商主これを見て、何の訳で大会を作すやと問う。諸人答えて曰く、爾々の地である人が一の駒を瓦師に遣った、それが希代の智馬と知れて王一億金もて瓦師より買い取ると、今度果して王の命を活かし、その謝恩のための大会じゃと。商主聞きおわって、どうやら自分が瓦師に遣った駒の事らしく思い、王の厩へ往きて見れば果してしかり。
智馬商主に向い、貴公が遥々将れて来た馬五百疋がいかほどに売れたか、我は一身を一億金に売って瓦師に報じたという。さては大変な馬成金に成り損なったと落胆の余り気絶する。その面へ水を灑いでやっと蘇り、何と悔いても跡の祭と諦め、これというもわれ尊公を智馬と知らず悪み虐げた報いですと、馬の足を捧げ申謝して去った。その商主は侍縛迦太子、智馬は周利槃特の前身だったから、現世にもこの太子が周利槃特を侮り後懺謝するのだと、仏が説かれたそうじゃ。
梵授王が智馬を有する間は隣国皆服従し、智馬死すると聞いてたちまち叛き去ったとは信られがたいようだが、前達て『太陽』へ出した「戦争に使われた動物」てふ拙文中にも説いた通り、昔は何地の人も迷信重畳しおり、したがって戦術軍略の多分は敵味方の迷信の利用法で占められ、祥瑞の卜占のという事兵書筆を絶えず。されば何がな非凡異常の物を伴れ行かば敵に勝つを得たので、近時とても那翁三世が鷲を馴らして将士の心を攬ったり、米国南北戦争の際ウィスコンシンの第八聯隊が鷲を伴れ往きて奮闘し、勝利事果てその鷲をその州賓として養い、フィラデルフィアの建国百年祝賀大博覧会へも出して誇り、長命で終った遺体を保存して今も一種の敬意を表し居る。
まして馬には時として人に優った特性あるのもあれば、弱腰な将士の百千人にずっと勝れた軍功を建つるもあり。それに昔は人毎に必ず畜生に勝るてふ法権上の理解もなかった(ラカッサニュの『動物罪過論』三五頁)。したがって人間勝りの殊勲ある馬を人以上に好遇し、甚だしきは敵味方ともこれを神と視て、恐れ崇めたのだ。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収