(伝説一2)
その頃婆羅尼斯の梵授王一の智馬を有したので他国賓服した。しかるにその馬死んだと聞き他国より使来り、王今我国へ税を払え、払わずば城より外出を許さぬ、外出したら縛って将れ行くという。王聞きて税を払わず外出せなんだ。時に販馬商人北方より馬多く伴れ来た。王大臣に告うたは、我智馬の力に由って勝ち来ったに、馬死んでより他に侮られ外出さえ出来ぬ、何所かに智馬がないか捜して来いと。
大臣相馬人を伴れ、捜せど見当らず。かれこれする内かの牝馬を見て、相馬人これこそ智馬を生んだはずだといった。大臣馬主に問うて、その牝馬が産んだ駒は瓦師方にありと知り、人を使して車牛と換えんというも応ぜず、使は空しく還る。智馬は畜類だが知識人に過ぎ、能く臨機応変しまた人と語る。
今使去るを見て瓦師に告えらく、我を終身こんな貧家に留め、糠滓を食わせ、土を負わすべからず、わが本分は灌頂位を受けて百枚の金蓋その身を覆う刹利大王をこそ負うべけれ、我食時には、雕物した盆に蜜と粳米を和ぜて入れたのを食うべきだ、明日また使が来たらこう言いなさい、瓦師は物を識らぬと侮って、智馬と知りながら知らぬ真似して凡馬の値で買うとは黠い、誠欲しいなら一億金出すか、僕の右足で牽き来り得る限り袋に金を入れてくれるかと言うべしと教えた。
翌日大臣相馬人を伴れて掛合に来ると、瓦師馬の教えのままに答えたから評定すると、諸臣一同この瓦師は大力あるらしいから足で牽かせたら莫大の金を取るだろう、いっそ一億金と定めるがよいと決議し王に白し、王それだけの金を遣わして馬を得、厩に入れて麦と草を与えると食わず。王さては病馬かと言うと、掌馬人かの馬決して病まずと答え、厩へ往きて馬に対い、汝は瓦師方にありて碌に食料をくれず骨と皮ばかりに痩せて困苦労働したるに、今国王第一の御馬に昇進しながら何を憂えて物を食わぬかと問うた。
馬答うらく、我足迅く心驍勇で衆人に超えた智策あるは汝能く知る、しかるに愚人ら古法通りに我を待遇せぬ故活きいるつもりでないと。掌馬人これを聞いて王に勧め、古法通り智馬を遇せしめた。その法式は王城より三駅の間の道路を平らに治め、幡と蓋で美々しく飾り、王親ら四種の兵隊を随えて智馬を迎え、赤銅の板を地に畳み上げて安置し、太子自ら千枝の金の蓋をげその上を覆い、王の長女金と宝玉で飾った払子で蚊や蠅を追い去り、国大夫人蜜を米に塗り金盤に盛り自らげ持ちて食わせ、第一の大臣は一番貧乏鬮で親ら金の箕を執りて智馬の糞を受けるのだ。
王それでは馬を王以上に崇めるので大いにわが威を堕すと惟うたが、智馬が自分方におらぬとさっぱり自分の威がなくなるから詮方なく、なるほどこれまでの致し方は重々悪かった、過ぎた事は何ともならぬ、これから古法通りにしましょうと詫び入りて、厩に赤銅板を布き太子に蓋、王の長女に払子、大夫人に食物を奉ぜしめると、大臣も不承不承慎んで馬の糞を金箕で承ける役を勤めたとあらば、定めて垂れ流しでもあるまじく、蜀江の錦ででも拭うたであろう。かく尊ばれて智馬満足し始めて食事した。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収