2-6 牧野兵庫頭
この法輪寺の墓地のオウチの木の下に、牧野兵庫頭の墓がある。銘字は摩滅してほとんど読むことができない。。頼宣卿のとき、この人は1万5千石を領す。かの卿の母方の三浦が米で1万石を受け、今川家以来の 家久能が伊勢の田丸城主として1万石を領したのに比べては、なかなかの大分限だった。
帝国書院刊行「塩尻」巻43に、紀公に寵用され、男と成っても権勢があった者が、牧野兵庫頭が男色より出頭してその右に出るのが不快で、公に最期の盃を請い、高野に隠れた話を載せている。
よって考えると、兵庫は男寵より出頭して、破格の大身分となったらしい。それなのに、大科に付き慶安4年新宮へ預けられ、承應元年4月田辺へ移され、11月10日に病死。月霜院殿円空寂心大居士と号す(田辺町役場古記録と、法輪寺精霊過去帳を参取する)。