10-1 弘法大師と麦
田辺の俗伝に、弘法大師が唐土に麦を求めに行き、犢鼻褌(※たふさぎ:ふんどし※)の中へ隠して持って来る。ゆえに今も麦に犢鼻褌がある。犢鼻褌とは麦の一面に縦に凹んだ部分があるのを指す。また3月21日の大師の命日に雨が降れば、その年麦は凶作という。
しかしながら、大師が麦を伝えたということはその伝記に見えない。大師の前に我が国に麦があったことは保食神(うけもちのかみ)が死んで腹中から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生えた(書紀一)とあるのでわかる。范蠡が作ったという『范子計然』(『淵鑑類函』三六五に引く)に、当方麦が多く、南方に稷(きび)が多く、西方に麻が多く、北方に豆が多く、中央に稲が多い、その植物がその土地によいのだとあるから、早く日本へ渡ったものだろう。
(中略)とにかくこうまで麦を重んじたり貴んだりする国が海外にあることを聞き伝え、弘法大師のお陰で麦を食うことができると、坊主などが大師の功徳を大きくしようとして言い出したことかと思う。