(性質5)
タヴェルニエーの『波斯紀行』に、バルサラに草乏しきより、魚の頭と波頭棗の核を牛に飼うといい、マルコ・ポロの書には、アラビヤのユシェル国は世界中もっとも乾いた地で草木少しも生ぜず、しかるに三、四、五月の間、莫大に捕れる至って小さい魚あり、これを乾し蓄えて年中畜の食とすと見ゆ。それから推すと神馬草の伝説も啌でなかろう。
マルコ・ポロまたいわく、マーバールでは肉と煮米を炊いで食すから、馬が皆絶える、またいかな好い馬を将ち来るも産まるる子は詰まらぬものばかり、さてこの地本来馬を産せず、アラビヤ辺の商人、毎年数千の馬をこの国へ輸入し法外に贏ける、しかるに一年経つ間に、多くは死んで百疋も残らず、これこの国人馬を養う方を知らず、外商これを奇貨とし、馬医この国に入るを禁ずるによると。
これら外商はインドへ馬を輸って莫大に贏けたが、旨い事ばかりはないもので、随分危ない目にも逢った。例せばタナの王は海賊と棒組で、インド往きの船に多少の馬を積まぬはないから、馬さえ己に献ずれば他の積み荷は一切汝らに遣ると、結構な仰せに、海賊ども雀躍して外船を侵掠した。
ギリシアのジオメデス王、その馬に人肉を飼ったが、ヘラクレス奮闘して王を殺し、その尸を馬に啖わしむると温柔しくなったという。わが邦にも『小栗判官』の戯曲(『新群書類従』五)に、横山家の悍馬鬼鹿毛は、毎も人を秣とし食うたとある。
前年『早稲田文学』に、坪内博士舞の本や、古戯曲の百合若の譚は、南蛮僧などが、古ギリシアのウリッセスの譚を将来したのを、日本の事のように作り替えたてふ論を出されたと聞いたが、いまだに手に入らぬからその論を拝読せぬ。しかし自分で調べ見ると、どうも博士の見は中りいると信ずる。
さてそのついでに調べると、小栗の譚は日本の史実を本としたものの、西暦二世紀に、チミジア国(今のアルゼリア)の人アプレイウスが書いた、『金驢篇』の処々を摸し入れた跡が少なくない。
例せば、サイケがクピッドに別れて昼夜尋ね廻るに基づいて、照天姫が判官を尋ぬる事を作り、ヴィナスがサイケに七種の穀物を混ぜるを、短時間に選別しむるに倣って、万屋の長が、姫に七所の釜の火を断えず焚かせ、遠方より七桶の水を汲ませ、七種の買物を調えしむと筆し、上述ジオメデスの人食馬を人秣食う鬼鹿毛とし、壮士トレポレムス賊と偽って賊に入り、そこに囚われいる情女カリテを娼妓に売れと勧むると、照天娼家に事うると、またトが毒酒で群賊を眠らすのと、さて女を驢に載せて脱れ遂ぐるのとが、偶然また反対ながら、横山が小栗の郎従を酔殺すのと、判官鬼鹿毛に乗って遁げおおせるのとに近似しいる。
もっとも小栗の話の大要は、『鎌倉大草紙』に載せた事実に本づき、むやみに改むる訳にも往かぬところから、『金驢篇』の模倣はほんのそこここに止まる。それから俗に小栗の碁盤の曲乗りなど伝うるに似た事は、前項でインドの智馬が蓮花を蹈んで行いたのと、広嗣の駿馬が四足を合せて、一の杭の頂に立ったのとだ。
躑躅と同科のアセミまたアセボを『万葉集』に馬酔木と書き、馬その葉を食えば酔死すという。「取つなげ玉田横野の放れ駒、つゝじの下に馬酔木花さく」と俊頼は詠んだ(『塵添嚢抄』九、『夫木集抄』三)。紀州で、その葉の煎汁で蘿蔔の害虫を除く。
これと同じくアンドロメヤ属に隷く、小木ラタンカットは北インドに産し、その若葉と種子は牛や羊を毒すといえば、日本の馬酔木もしっかり研究せば、敵の軍馬を鏖殺すべき薬科を見出すかも知れぬ。その時や例の錦城館のお富の身請をソーレターノーム。
ミッチェル教授説に、馬や驢や花驢は十五乃至三十歳生活するが、往々五十に達する確かな例あるがごとしと。スコッファーン説に、スコットランドの古諺に、犬の命三つ合せて馬の命、それを三つ合せて人の命、それから鹿、鷲、槲樹と、三倍ずつで進み増すとあるそうで、馬と鹿の間に人があるも面白い。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収