鶏に関する伝説(その18)

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  • 概説

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     『秋斎間語』二に「尾州一の宮の神主かんぬし、代々鶏卵を食せず云々、素戔嗚尊すさのおのみことの烏の字を鳥に書きたる本を見しよりなり。熱田にはたけのこを食わず、日本武尊やまとたけるのみことにてまします故となん云々。さいえば天下の神人はすべて紙は穢れたる事に使うまじきや。また、津島の神主氷室氏、えがくににかわの入りたる墨を使わず、筆の毛は忌まざるにや」。もっともな言い分ながら鶏卵を食わぬには古く理由があっただろう。鶏がきぬぎぬの別れを急がしてにくまるるほかに、早く鳴いて、鬼神や人の作業を中止せしめた多くのはなしは別に出し置いたから御覧下さい。

     仏経に見る鶏の輪廻譚りんねばなしを少し出そう。仏が王舎城にあった時、南方の壮士、力千夫せんぷに敵するあって、この城に来るを影勝王が大将とす。五百賊を討つに独り進んで戦い百人を射、余りの四百人に向い、汝らすすんで無駄死にをするな、傷ついた者の矢を抜いて死ぬるか生きるかを見よと言うた。諸賊射られた輩の矢を抜くと皆死んだので、かかる弓術の達者にとても叶わぬとさとり、一同降参した。

    大将これをあわれみ、そこに新城を築き諸人を集め住ませ曠野城と名づけた。城民規則を設け、婚礼のたびごとにこの大将を馳走し、次に自分ら飲宴するとした。時に極めて貧しい者あって、妻を娶るに大将を招待すべき資力なし。種々思案の末、酒肴の代りにわがいまだ触れざる新妻を大将の御慰みに供え、その後始めて自宅へ引き取った。

    爾後、恒例となって諸人妻を迎うるごとに大将に手折たおらせたとあるが、これは事の起源を説かんためかかる噺をこじ付けたので、拙文「千人切りの話」に論じた通り、一八八一年フライブルヒ・イム・ブライスガウ板、カール・シュミット著『初婚夜権』等を参するに、インド、クルジスタン、アンダマン島、カンボジヤ、チャンパ、マラッカ、マリヤナ島、アフリカおよび南北米のある部に、もとよりかかる風習があったので、インドで西暦紀元頃ヴァチヤ梵士作『愛天経』七篇二章は全く王者が臣民の妻娘を懐柔する方法を説く。

    その末段にいわく、アンドラの王は臣民の新婦を最初に賞翫しょうがんする権利あり。ヴァツアグルマ民の俗、大臣の妻、夜間、王に奉仕す。ヴァイダルブハ民は王に忠誠を表せんとて一月間その子婦を王の閨房にる。スラシュトラ民の妻は王の御意に随い、独りまた伴うてその内宮にいたるを常とすと。欧州には古ローマの諸帝、わが国の師直もろなお、秀吉と同じく(『塵塚物語』五、『常山紀談』細川忠興ただおき妻義死の条、山路愛山の『後編豊太閤』二九一頁参照)、毎度臣下の妻を招きてこれを濫したというから、中にはアンドラ王同様の事を行うたも少なからじ。

    くだって中世紀に及び、諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主にはべらしめねば夫の手に入らぬのだ。例せばスコットランドでは十一世紀に、マルコルム三世、この風を発せしが、仏国などでは股権とて十七世紀まで幾分存した。この名は君主が長靴穿うがった一脚を新婦の臥牀ねどこに入れ、手鎗を以て疲るるまで坐り込み、君主去るまで夫が新婦の寝室に入り得なんだから出た。

    夫この恥を免れんため税を払い、あるいは傭役ようえきに出で、甚だしきは暴動を起し、稀には「義経は母を」何とかの唄通りで特種の返報をした。仏国ブリヴむらの若侍、その領主が自分の新婦に処女権を行うに乗じて、自らまた領主の艶妻を訪い、通夜してこれに領主の体格不似合の大男児を産ませた椿事ちんじあり。かかる事よりこの弊風ついに亡びた(一八一九年板コラン・ド・ブランシーの『封建事彙』一巻一七三頁)。

    仏国アミアンの僧正は領内の新婦にこの事を行うを例としたが、新夫どもの苦情しきりなるより、十五世紀の初めに廃止したというに、尾佐竹猛おさたけたけき君の来示に、今もメキシコで僧がこの権を振う所ある由。『大英百科全書』十一板、十五巻五九三頁に、紀元三九八年カルタゴの耶蘇徒に新婚の夜、かの事を差し控えよと制したが後には三夜まで引き伸ばした。さて、欧州封建時代の領主は臣下の婚礼に罰金を課したから、この二事を混じて中古処女権てふ制法が定まりいたと信ずるに至ったのだとある。しかし上述通り欧州外にもこの風行われた地多ければ、制法として定まりおらずとも、暴力これ貴んだ中古の初め、欧州にこの風行われたは疑いをれず。

    『後漢書』南蛮伝に交趾の西に人を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)くらう国あり云々、妻を娶って美なる時はその兄に譲る。今烏滸おこ人これなり。阿呆を烏滸という起りとか。明和八年板、増舎大梁の『当世傾城気質』四に、藤屋伊左衛門諸国で見た奇俗を述べる内に「振舞膳ふるまいぜんのち我女房を客人と云々」これらは新婦と限らぬようだが、余ら幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋ありがたや連、厚く財を献じてお抱寝だきねと称し、門跡の寝室近く妙齢の生娘きむすめを臥せさせもらい、以て光彩門戸もんこに生ずと大悦びした。また、勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素してもらい、米、酒、および桃紅色のふんどしを礼に遣わした。

    『中陵漫録』十一にいわく、羽州米沢の荻村では媒人が女の方に行きてその女を受け取り、わが家に置く事三夜にして、餅を円く作って百八個、媒が負うて女を連れ往き婚礼を調ととのうと。ローマの議院でシーザーに一切ローマ婦人と親しむ権力を附くべきや否やを真面目まじめに論じた例あり。スコットランドでは中古牛を以て処女権を償うに、女の門地の高下に従うて相場異なり、民の娘は二牛、士の娘は三牛、太夫の娘は十二牛などだ。イングランドはこれに異なり民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)。藤沢君の『伝説』信濃巻に百姓の貢米ぐまいを責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃というて連れ来って慰んだ由見える。これも苛税をはたす奇抜な法じゃ。

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    「鶏に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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