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前項に書いたほかにまだまだ弥勒と僭称した乱賊の記事がある。『松屋筆記』六五に『二十二史箚記』三十巻、元の順帝の至正十一年、〈韓山の童倡えて言う、天下大いに乱れ、弥勒仏下生すと、江淮の愚民多くこれを信ず、果して寇賊蜂起し、ついに国亡ぶるに至る、しかるにこの謡は至正中より起るにあらざるなり、順帝の至元三年、汝寧より獲るところの捧胡を献ず、弥勒仏小旗、紫金印の量天尺あり、而して泰定帝の時、また先に息州の民趙丑斯、郭菩薩等あり、謡言を倡え、弥勒仏まさに天下を有つべしという、有司以て聞す、河南行省に命じてこれを鞫治せしむ、これ弥勒仏の謡すでに久しく民間に播くなり、けだし乱の初めて起る、その根株を抜かず、ついに蔓延して救うべからざるに至る、皆法令緩弛の致すところなり云々〉。
本朝にも弥勒の名を仮りて衆を乱せし事歴史に見ゆとありて、頭書に『輟耕録』二十九にも出づとあるから取り出し読むと、果して至正十一年、執政脱々が工部尚書賈魯を遣わし、民夫十五万と軍二万を役して黄河を決せしめ、道民生を聊ぜず、河南の韓山童乱を作し、弥勒仏の出世を名となし、無頼の悪少を誘集し、香を焼き、会を結び、漸々滋蔓して淮西の諸郡を陥れ、それより陳友諒・張士誠等の兵尋で起り、元朝滅亡に及んだ次第を述べ居る。
本朝にも弥勒の平等世界を唱えて衆を乱した事歴史に見ゆとは何を指すのかちょっと分らぬが、『甲斐国妙法寺記』に、永正三丙寅、この年春は売買去年冬よりもなお高直なり。秋作はことごとく吉、ただし春の詰まりに秋吉けれども、物も作らぬ者いよいよ明けし春までも貧なり。この年半ばの頃よりも年号替わるなり云々とありて、永正四丁卯、弥勒二年丁卯と並べ掲ぐ。山崎美成の書いた物にこの年号の考あったと覚ゆれど今ちょっと見出さず。
『一話一言』一六に、『会津旧事雑考』より承安元年辛卯を耶麻郡新宮の神器の銘に、弥勒元辛卯と記した由を引き、三河万歳の唱歌に、弥勒十年辰の歳、諸神の立ちたる御屋形と唄うも、いずれなき事にはあらじかし、とある。永正三丙寅と承安元辛卯、いずれも弥勒元年とするもその十年は乙亥か庚子で辰の歳じゃない。『慶長見聞集』の発端に見えしは、今三浦の山里に年よりへたる知人あり、当年の春江戸見物とて来りぬ。愚老に逢いて語りけるは、さてさて目出たき御代かな、我ごとき土民までも安楽に栄え美々しき事どもを見きく事のありがたさよ、今が弥勒の世なるべしという。実に実に土民のいい出せる詞なれども、全く私言にあるべからずと記せるなど考え出すと、昔は本邦でも弥勒の平等無差別世界を冀う事深く、下層民にまで浸潤し、結構な豊年を祝い、もしくは難渋な荒歳を厭うことは、一度ならず私に弥勒と年号を建てたらしく、例の足利氏の代に多く起った徳政一揆などの徒が、支那朝鮮同様弥勒仏の名を仮って乱を作せし事もあったのだろう。
二月十六日の『大毎』紙に、綾部の大本に五六七殿というがあるそうで、五六七をミロクと訓ませあった。かつて故老より亀の甲は必ず十三片より成り、九と四と合せば十三故、鼈甲で作る櫛を九四といい始めたと承ったが、江戸で唐櫛屋を二十三屋と呼んだは十九四の三数を和すれば二十三となるからという(『一話一言』八)。この格で五と六と七を合すと十八すなわち三と六の乗積ゆえ、弥勒の無差別世界を暗示せんため、弥勒の代りに十八、そのまた代りに五六七と書いたものでなかろうか。
さて前に書いた通り、鶏足を号とした寺は東北に多く、また、奥羽地方に荷渡り権現多く、また鶏足権現、鶏足明神と漢字を宛て、また、鶏鳥権現と書きある由(『郷土研究』二巻八号、尾芝氏説)、しかるに『真本細々要記』貞治五年七月の条に、伏見鶏足寺見ゆれば畿内にもあったのだ。蔵王権現は弥勒の化身と『義楚六帖』にいえば、これを尊拝する山伏輩がもっとも平等世界や鶏足崇拝を説き廻っただろう。
河内の道明寺中興住持の尼、覚寿は菅丞相の伯母で、菅神左遷の時、当寺に行き終夜別れを惜しむ。暁に向い鶏啼きて喧し。菅神そこで吟じたもう和歌に「鳴けばこそ別れを急げ鳥のねの、聞えぬ里の暁もがな」(『和漢三才図会』七五)、これよりこの土師の里に鶏鳴かず、羽敲きもせぬ由、『菅原伝授鑑』に出で、天神様が嫌うとて今に鶏を飼わぬらしい(高木氏『日本伝説集』二一九頁)。
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